『情況・非トポス(存在は世界を包括する)』         1979年制作by加藤

                                     1、940×2、273                      銀座・村松画廊 個展出品作

                      カンバス(組み合せ) M・ペースト、アクリル、 *モノクロ写真     

2章

 「黄犬」と「赤犬」 -同じ穴の狢(ムジナ)

    ある労働組合に見る排除の暴力  3            

 

 「この・・愚人と陰湿者と卑怯者たちの一致団結というものは、

どれほど自己を信頼していたとしても、孤立して対峙しなければ

ならないときには、まったく許せないものになるのだということを

君たちには想像することはできないでしょう。 」

                        ジャック・デリダ

               (ブノワべータース著『デリダ伝』から)               

  ふだんから考えたり、思念したりすることが少ない人たち、

むしろ自分で考えることは危険だと思っている人たちは、社会 

により内面を奪われている。 思考する力をもつ人は絶対的に

少数である。 自分のうちに光をもたない人間は、外に光を求め

るほかはない。 まるでゾンビの世界。 それが不遜だ、生意気

だというときあなた方は一体何に依拠して言っているのか?

       執筆者不明 (『日記』2017/4/30付メモから抜粋)                      

 

 今年はベートーベンの生誕250週年にあたるというので、記念音楽番組のTV放映のたびに拝見している。 ベートーベンについては「交響曲第6・田園」に動顚霹靂(どうてんへきれき)するという表現も大げさではない体験に襲われたことがある。 1970年三島由紀夫の自衛隊乱入事件の起こる4ケ月前の夏、26歳のカレは名古屋市にいた。 24歳の秋東京を離れ、高野山の宿坊の手伝いをしながら仏教学にふれる生活をし、山を下りて釜ヶ崎の日雇い生活をし、目指すは知床の白氷に閉ざされた番屋生活をしようと目論み、輾転する旅の生活の途次であった。 なぜ、そんな旅をって? 生きることに燃焼しまくって苦悩に倦み疲れ、すべてが茫漠として歪み遠のく空虚の苛酷さに襲われる日々から逃れるためだった、と言えばわかってもらえるだろうか・・。

 仕事の昼メシの時間、社員食堂にいきメシを食おうとテーブルについたとき、それは起きた!食堂のTVの白黒画面は昼ドラの喫茶店のシーンだった。聞きなれた「田園」の観念されたあの自然のやさしく清朗で軽快な楽曲の永遠の流れが鼓膜を刺激した・・・突如、バシっ!と頬を殴打されるような衝撃が走ると一瞬、食堂内がモノクロの虚無色とでもいうしかない空間に変貌しすべてが崩落していく光景が現出した!天井はすっ飛び、壁は反りかえり、眼前の床は音もなく跳ねりうねった。虚無の嵐にとらわれたカレの異様な気配が伝搬したのか、周囲の人々の奇妙なシロモノに出遭った時の鈍い視線が鋭く注がれていた!

 「田園」は虚無の即時性を解体崩落させモノの実体開示の序章を奏でているのだ!音楽とは縁のない環境で育ち、聴く耳などもちあわせようもなかった貧寒な青年を襲った目覚めの瞬間だった・・。 陶淵明の「帰去来の辞」を読んだときも強度の差はあれ、同じ体験にみまわれ、また、村上華岳の見知っていたはずの「裸婦図」を夕刊の片隅の美術欄の小さなモノクロ写真で眼に留めたとき、具体的に記述したいところだが、得も謂えぬ陶酔の体験は、地獄で喘いでいたカレに芸術が実存の救済にあることをはじめて認識させた・・・・。

 世界が崩落して瓦解の粉塵が寂寞((せきばく)となって急襲してくる虚無の嵐の現象は、「1章 ディアスポラに生きる」に記述(本ブログ①)した巨大な白い塊り、「存在」の形相が浮上した光景(ブログ④ 習作銅版画参照)の前触れの“兆し”だったといえるだろう。追体験の再現されたイメージの再構成だが、戦慄と恐怖のない混ぜた狂的な暴力の形相は「存在」が悪の凝縮した形態だったと思いしらせる。それは淫売の毒々しくけたたましい嘲弄の笑いを滲ませていた!生の横溢と過剰が招いた絶望が、生の差延を引き起こし錯乱し、底の底から冷酷で醜悪な裸形の実体を眼前に突出するーー空虚の限りなく不毛で耐え難い自棄をもはらむ単調さ、無意味な茫漠のカオスが、「存在」の悪と絡む関係によって何を知らしめようというのだろうか? 容量を超えた混乱状態に陥っていくが、恐れ知らずな無知な青年が漠然とではあったが思念していくことに、「存在」は世界を包括している内的宇宙の存在論として新らしい形而上世界の構造化への徴(しるし)を示唆してくれているのではないか? ということであった。 人間主義的な主体化の思想を反体制という左翼イデオロギーで括る政治党派の風潮は、対置する堅固な国家体制に収斂されていく権力-暴力関係の双対次元にすぎないことへの否定と、乗り越えを目指す反時代的な精神構築への挑戦意識の芽生えがあった。

 

  「存在」体験から記述しはじめたのには、学校警備員だった大島良男君の悲劇的ともいえる死が、受難の場であった学校職場と労働組合にかかわる邪悪な人間関係の実態を如実に突き付けていたがためである。

 

 前節から続くが、大江東をはじめとした執行部と「赤犬」の群れは一般組員をとりこみ、異質で「生意気」(大江、坂口暢英他)なカレを孤立させ村八分にする包囲網を敷いて庁舎、学校職場全域に中傷喧伝をバラまいていた。 闘争敗北の“総括”をしない限り、集会や動員など一切の出席拒否の姿勢をとっていたカレは、

“組合脱退”の意向も考えていた。 詳述は後の展開にまわすとして、大江らの中傷喧伝に対抗するために私文書『よるの学校しんぶん』を発行していた。 1993年(平成5年)4月に、それまで14年9月間在籍した区立HU小学校から規則により(1年間の代替勤務校を経て)区立KY小に異動したばかりだった。 大島良男の突然の死の知らせに愕然(がくぜん)とした記述から『よるの学校しんぶん』(2000年12月15日再刊1号)は始まっている。 以下少し長いが同紙から転載しよう

。なお、文中【注・ 】として、記憶している大島の言葉と情況説明を付記している。

   

  5年前の6月はじめの日、出勤してふと主事室の掲示板に張られた《訃報》をみやった私の眼にとびこんできた《大島良男》の名文字に仰天し脚竦(あしすく)み、茫然とした・・・。

 4,5日前、大島に電話を入れたばかりだった。 身体の不調を言うので、医者嫌いらしいのはわかっていたが(大島は頑健な体力をもっていた)、ともかく医者に診てもらわなくてはいかんよ、と注意して受話器をおいたのが最後になってしまった。

 満43歳で逝ってしまった大島の硬くなった最後の顔は・・・孤立の中で凄惨な闘いを闘って力尽きた者の、苦悩をあらわにしていたがしかし、この腐敗し頽落(たいらく)しきった邪悪な“現世の死神”どもの狂気の数々を厳然と見据え過ごした苦闘の歳月を生きた者のみが宿すことのできる<人間の尊厳>というものを表情に漂わせていた。

 (SB)小学校の学校警備員として過ごした18,9年の・・歳月は大島の心を蝕む事態に貶(おとし)めていった。 他校の職場の実情が私にわかるわけではない、しかし<学校>職場の一般性と彼が置かれてきた立場は、同業の者として大島がいかなる現実に立たされ追い込まれていったかを理解できないわけがない。

 「大島サンは“ホトケ(仏)様”にナッタンダ、あの世でジョーブツ(成仏)してんだから、アンタがツベコベいう必要ナインダ! 」と当時同校の用務員として少なからず大島を窮地に貶めることに関わりがあった野田久江【注・当区支部委員長吉田勝彦の手足歯車で日共党員。 昭和58~平成元年度まで区立HU小にて用務員。 同時期カレも同校に在職していた。 平成2年に大島のいたSB小に野田は異動した。 「警備員なんか要らねへ! 」と、吉田の権威(! )をかさに言いたい放題罵言する横暴な性格で“スターリンの下女”とカレはあだ名していた。 『ニュースステーション』の久米宏と日共ディレクターによるカレへのでっち上げ人権誹謗報道は野田久江と当時HU小教員伊藤行夫らの悪辣な誹謗中傷投書によるものであった! 詳しくは次節になるが久米の口舌から全国放映された反響はすさまじく視聴者の脳裏に刻み込まれる事態になった】は、私の詰問に反発して言った。 「はじき者にされたやつ食い物になるしかねんだ! 」と学校警備員再雇用者の中村功は、おのれが“強者”でもあるかのような厚顔をして言い放った。

 偽善、欺瞞にもとづく虚言は低劣で醜悪な精神構造をあらわにし幼稚にして邪悪な実態を垣間見せる。 大島は『警備日誌』に職務を支障する教員らの悪戯について実名をあげて激しく指弾する「記述」を続けていたという。 彼がひんぱんに私の職場を訪れるようになった平成4,5年頃は未だいわゆる“学校批判”に社会が沈黙していた時代だった。 <学校>職場は“教員ナルチシズム”がもたらす教員 セクト主義が集団凝集性としての力をもち、権威主義体質のよってきたる偏見や差別心の横行する現実があった。 閉鎖体質集団には、自己ナルチシズムの現れのひとつとして、自分に似たものよりも自分とは違ったものをいみ嫌い、殺そうとする強い性向が支配するといわれる。 その集団になじめない人間は劣った人間か悪い人間、あるいはその両方であるとして見下し排除する構造を持つ。 そうした劣悪な職場環境に置かれた大島の「記述」が、孤立感からくる過剰さをもっていたとみるとしても、“教員ナルチシズム”集団の中でのさばっていた俗物徒輩どもが邪悪の限りをもって大島を阻害し悪戯をこらし彼の神経を疲弊させていったことは違いないし、ついに彼の脳神経機能を破壊するに至らしめた結果だといえる.。大島にとって重なる不幸は、彼の所属する<警備員組合>がスターリン主義ファシズムとしか言いようのない組織体質であったことだ【注・大江東が執行部を握ってから、組織体質は甚だしく卑小なセクト化した】。 (略) 大島はかすかな“生”の明かりを繋ぎとめようとしてチビ幹に「HELP」のサインをだしていたが、イデオロギー・ゴロに届くわけもなかった。【注・大島は大江に窮地に追い込まれている立場を支援してくれと要請したが、「助けてやるから社会主義協会がやってる会議に出てこい!」と言うので断ったという。】 大島を強制異動させようとして教職員係【行政職】に同行し、職場に押しかけた執行部の一人だった笹岡輝利【大江執行部の会計係をしていたが、前は洗濯屋さんだそうで「洗濯屋のケンちゃん」とあだ名されていた】は、異動を強制する罵言を吐いた【註・「おめえはよお、気が狂ってんだ、マトモな人間じゃねえんだからよお、異動すんだよおお!」云々、強制する暴言を吐かれた】と語る大島の悔しそうな表情を覚えている。【大島はSB小からIG小に強制異動させられて3月めに逝ったが、白眼視を受けて逆に心労は増したであろう・・。】

 内輪で告別式をするといっているのにチビ幹ら多勢が押しかけたのは死者にたいするうしろめたさをごまかそうとする気持ちからだったと私は見ていた。しかも、笹岡のごときは何も知らないご家族に馴れ馴れしく振舞いおべんちゃらをいう姿に、大島の悔しくも悲しかったろう姿をかさねていた。

  <警備員組合>とその構成員どもの功利的に生きることしか知らない安楽全体主義がもたらす迎合体質の偽善や数々の卑劣さについて、党派性と救群感情からくる腐りきった自己保身だらけの精神分裂した集団幻想表象の邪悪の数々について次節で論じ指弾することになろう! (略) 大島が到面していた現実は知ったかをいえるほど容易なものではない極限的に困難な状況だったに違いない。“現世の死神”どもに傷つけられたことが契機だったにしても、彼の前に出没するようになった“あの世の死神”とは<絶対他者>のもとに誘うあの世とこの世を結ぶ使者の姿だった!大島は穹窿(きゅうりゅう)にたたずみそして、あの深い口をあけた暗黒の空洞の淵からまっさかさまに墜ちていった・・・始めでもあり終わりでもあるもの、有限である生の領域に、しかも無限である死の世界の現出!生と死の亀裂の境界に突如として引き出され、恐るべき眩暈(めまい)に切り刻まれる体験は、なすすべもなく狂気に陥るしかなかったろう!--人はこういう人間の狂気の態をあざ哂い馬鹿な死に様だという!「みえないモノがみえてんだ⁉」と知ったふうな口をきかれたと言う。

   ・・・・・・・・・・。

 

  いま、眼の前をヤツが通りすぎていった、夜になると天井からヤツが覗いているんだ、いつもヤツが待ち伏せしていて尾行してくるんだ・・・。

 大島に憑依((ひょうい)した死神による強迫観念を癒やすべくカレはふざけながら真顔で言った。 「ヤツが出たらこう言ったらいいよ。 “やあ、いらっしゃい、お待ちしておりました。 いっしょに一杯やりながら話しませんか。 おたくさんが出てくださるとヒマつぶしができてありがたいです”ってな。 つき合っているうちにキミにとって大切な大切なお友達だったって思うようになるぜ! 」と。 大島は苦笑いしていたが、実際「ヤツ」に執り憑かれたら飼い馴らして戯れてやるしかすべはないはずだ・・。

  棺中の硬化した表情には、死神の急襲が心臓発作をきたした形跡があった。 神も仏も呼ばず、「死と悪魔をつれた騎士」(A・デューラー作・銅版画)のように屹立し抵抗し闘って誇り高く生き死んでいった不屈な男の魂に合掌した。

 

   「完全勝利」の旗ジマイによって3校の“機械化導入”のあげく、今後“退職者不補充”による人員削減、したがって、正規職員の採用中止。高齢者事業団からの警備員派遣とアラーム・システムの配備による全校機械化の土台が築かれたわけであった。

 “超勤手当減額”のおまけつき、と当局の合理化の目論見に嵌(はま)る貢献をしただけだった。復元の戦術など立てようもなく時は流れ、学校警備員組合はもう存在しない。

 カレが退職する3年前(平成13年)大阪教育大付属池田小にて学童と教職員が授業中に学校に侵入した男に殺傷されるという事件が勃発して社会は震撼した。 カレの記憶では“平成”という年号になってから異常な犯罪が眼に見えるように起こるようになっていたことだった。 つまり日常生活を営む普通の世間人が特殊な凶悪犯罪者もどきに普通に手をそめる異常な犯罪事件が頻繁に起こる、という不気味に感じる現象だった。 東西冷戦崩壊後の世界戦略の図式の建て直しを考えるが食い込めず空白の時期が取り巻いていた。 オーム・サリンやそれらの影響はさて置いて、池田小事件が起きたとき、まだ正規は80名弱いるのだから、“守衛制度”化に向けた交渉戦術に取り組めるのにな、学校管理体制は昼夜を分かたず厳しくなるはず、当局も無碍に提案を退けられない状況がでてきた、と思った。 当時すでにカレは組合を脱退して大江らがバラ巻く悪喧伝に抵抗していた状況だった。 返す返すも残念に思い返したことは1988年(昭和63年)、付き合いはなかったが不意に警備の中井勉が「蓼沼義夫の紹介だ」(!? )と言って職場に訪ねてきた。 話を聞いてやると、手弁当持ちで足繁く来校するようになった。 仔細は後述するとして、「大江東の執行部は組合をダメにするだけだ。 オレと執行部をやらないか? 」と尋くと即座に「やる! 」と応じた。 執行部三役の人選など2度話した。 カレは吉村英臣にこの件を伝え支援要請をしなければと思っていたが、中井が次に来訪したときに、と待っていたが待てども来ない・・。

  不審な思いはあたった。 カレが夕方出勤すると職員室の教員らがカレを指さすように嗤っているのだ! 「中井の仕業だ! 」と直感した。 と、いうのもHU小警備の相手番だった三井康有という大江の手足が、中井の中傷喧伝を聴いてHU小の職員室にバラまいた!としか思えなかったからだ。すぐ中井の職場M一小に電話を入れ「一体、どういう事なんだ⁉」と質すと、開口一番返答に唖然とした‼いわく、「自分は嫉妬するとどうにもならなくなるンです」と!! カレは憤然として受話器を投げていた!  「蓼沼義夫の紹介できた」と言ったが蓼沼から、連絡などいっさいなかったところから背後に蓼沼の姿が浮かんだ。 蓼沼とは親しくつきあってきた組合の唯一人だったが、この頃大江東がカレの孤立を画策して蓼沼を影響下に入れるべく、離反を仕向けているのを蓼沼の言動からキャッチして遠ざけるようになっていた。 このことはすぐ大江耕作という大江東と同姓の執行部の自称「黒幕、元民青」だという警備員が蓼沼の職場に「花束(!)を持って訪問してきた」と、蓼沼本人が流布した情報から明らかだった。大江耕作の職場に電話して「キミ、蓼沼とそんな親密だったっけ?花束持参なんてラブコールなわけかい!」と皮肉るとギャアギャア喚きたてるだけであった。大江東の代理人として訪ねたのは明らかだとしても“花束”持参はこいつらホモ仲間か?見え透いたことをする胡散臭い徒なのだ。

 

 自分は大江東に見こまれている、カレと離反して孤立化させ、カレの情報提供者になれば組織内の株があがる。組合活動参加が嫌で嫌でならないと口にし、私事と俗事しか関心が向かない蓼沼義夫が、「オレに組合のコトで知らないコトはない!」などと豪語してた!という話を耳にして、蓼沼の無知丸出しと脆弱な精神構造は熟知しているから苦笑し軽蔑した。が、それだけでは済まされない「ジゾイド人間(分裂症型人間)」(精神分析医・小此木啓吾)のドス黒い畸形な内部実態の剥き出しを感じていた。蓼沼義夫の次々と放つまことしやかなカレについての人権や経歴の罵詈讒謗は大江東によって“嗤い者”、“イカレ者”のレッテル張りに利用され、悪喧伝は途方もない拡大をしていった! 「蓼沼、これは何事だ!」と電話をすると、「ヒヒヒヒ~、オレがやったんだァァ!」とせせら嗤うゲス声の不気味さに、知りあったころ雑談していて「この組織はエゴイスティックだが「自己」というものがない野郎が多いから、親しくしてもいざ、関係がまずくなると泥沼になりかねないよな・・」と言うと「ソウ、ソウなんですヨ!」と応じたその時の、図星ゆえにかギラっと瞳孔が開いた黒目と狡く歪んだ面貌の醜悪さに思わず顔を背(そむ)けたことを思い出した・・。「闇の一族」であるソフォクレス(『ファウスト』2部)のお仲間のお一人様だったか!!

 

 先頃視聴したユヴァル・ノア・ハラリ氏の言葉にあったように「人間の愚かさをみくびってはならない」(11月29日ETV特集『ハラり特別授業』)という重い言説をどう受けとめているか、受講している賢い青年たちの表情と反応に見いったことだった。

 「愚かさ」を見縊(みくび)ることは、<“ナマ”の現実>を忌避し軽蔑し冷笑することで己を隠蔽し虚飾するだけの日常茶飯みかける世間人の現実である。<“ナマ”の現実>とはJ・バタイユのいわゆる「おぞましさのどん底」という意味を包含しでいる、と言いたい。 醜悪と残酷、汚辱と悲哀、この病理的宇宙存在の「どん底」を直視していけば必ずや存立の未知の啓示はやってくると信ずるべきである、ということをカレの存在経験から言明したいが、今はたちいることはできない。

  むろん、ハラり氏の言説は、そんなことを青年たちに言おうとしているのではないのはご理解の通り。世界の歴史的現実は民衆一人一人のミクロな人間の「愚かさ」が累積して、差別と悪と暴力の巨大な権力機構をうみだしてきた。迫害され血を流し犠牲になってきた無名の民衆とともに、世界全体と切り結ぶ統一世界へ向かって模索して生きよう、といささか教科書的なガッコウの先生の言い種のようになってしまうが、氏の眼目といっていい「コロナ」感染の猛威の背後で「コロナ後」を見据え法治国家の原則を容易にすり抜け超えていく“監視体制”の強化が謀られ、進行しているという指摘は、この日本という国においても例外ではないことに配慮すべきであると思うのだが。

 

 長文は避けたほうがいいですよ、というアドバイスを受け入れることにした。               以下次号。