恋愛っていうのはどちらが先にパートナーを打ちのめすかの冷戦だと思う。両性ともその場しのぎ的に愛し合うことができているけれども、お互い一人一歩外に出れば常に上位互換を血眼になって探し回って、乗り替えるチャンスを絶対に逃さないという堅い意志が自然と胸に湧くのである。
年収だとか社会的地位だとか体格だとか自分をどれだけ愛してくれるか大切にしてくれるか、欲しいものを買ってくれるか毎朝挨拶してくれるか連絡はまめかとか、パートナーに求めている条件を高い次元で満たしてくれる人を探してしまうのである。
傷つけられるくらいなら、先に傷つけたほうがいい、打ちのめされる前に打ちのめしてやろう、自分ならそう考える。みんなはどうなんだろう。
こんなときサウザーの愛ゆえに人は悲しまねばならぬという言葉が頭によぎる。でもそこには温もりがあった、でもまた悲しみがくる、でもそこにもまた温もりがあった。浮気したされた、復縁したできなかった、離婚したまた結婚した。
より良い生活を求める人ならば自分の人生に悲しみはいらないと思うのが当然で、できれば永遠の愛というのを誓いたい。でも本能がそうはさせない。そこで理性が働く。本能に従うか理性に従うか、そこでその場その場に適した合理的な判断が必要になる。合理には善が含まれる。
ここは判断が分かれると思うが、
つまりパートナーにバレなければ浮気でも浮気ではないのだ。バレなければパートナーを傷つけることはない。もちろん浮気相手にもパートナーがいることが知れてはならない。これを世界の全ての人が考えて正確に実行してるとすると、どうだろう。なんと美しい世界だろうと思う。
考え忘れてたのは一瞬でも浮気は駄目だと躊躇う気持ちが出てくるのは本能なのか、理性なのか分からないという疑問だ。浮気がバレるともうパートナーとはヨリを戻せないだろう。つまり、持ち駒を一つ失うというリスクを考えるからだと思う。これは本能と理性の合せ技である。持ち駒がたくさんいるとそれだけで安心できるものだ。恋愛指南でよく、一人の女性に夢中になって追いかけてはいけないと書いてある。
恋愛を損得で考えてる気がする。これじゃだめなのかもしれない。もっと気軽に、羽のようにフワッとした心構えでいないといけないのかもしれない。彼女にこんな話をしたことがあるけど、その時はひどく機嫌を損ねてしまった。私のことが信用できないの、と。
信用のしようがないじゃないか。と自分はこころの中で歯を食いしばっている。
結婚は諦めだとか言う人もいるし、どうなんだろう。結婚は幸せを諦めた者たちのものだ。毎日曇天灰色生活の幕開けである。それはおかしい。
二兎を追うものは一兎をも得ず。青い鳥症候群。老いるのが先か諦めるのが先か。
でもなんだかんだ彼女とドライブしたり写真を撮り合ったり食事に行ったりデート中は楽しいし彼女を抱きしめて寝ると幸せな気持ちになってしまう。こんな日が毎日続いたらいいなって。そして朝、各々仕事とかで別れて職場に向かう途中に、ふと考えてしまう。彼女は自分の腕の中に抱かれながら他の男のことを考えてるに違いないと。そしてこの日記のてっぺんに戻ってくる。
毎日堂々巡りだ。運命の人に出会ったらこんな苦悩とはおさらばできるのだろうか、運命の人でもこの苦悩は続くのか、誰か教えて欲しいです。