竹井さんは、何も言わなかった。
いつのまにか、俺の周りにはSPもいない。
俺はSF映画で見たような真っ白な壁に囲まれた30畳はあろう無駄に広い研究室を分厚いガラス越しに見下ろした。部屋の中心にはベットが一つ。遠くて良く見えないが、首から下は薄いシートをかけられている。
その女性の顔色を見る限り、生命力は感じない。
それを横目に流しつつ、竹井さんの傍まで歩み寄った。
竹井さんは、何も言わなかった。
俺の言葉を待っているのか。検体が目覚めるのを待っているのか。
白衣を着た二人は、ただただ、分厚いガラス越しの検体を無言で観察した。
「死んでいるんですか?」
「ええ」
やはり。
「彼女は生きながら、死んでいる」
「?」
竹井さんは、話し出す。でも、よく覚えていない。IPS細胞による筋肉や骨、内臓いたるまで、人間を構築するすべてを再生させる実験。引いていえば不老不死というやつだ。科学も倫理も崩壊しそうな内容を俺はガラスに手を当てながら、可能な限り聞き入った。
「遺伝子のコピー自体はそんなに難しいことではない」
竹井さんが、俺にも理解できるような言語で話していることには気が付いた。
得心が行かない。
世界的にも発表されていない、いや、発表してはいけないのかもしれない。なぜ、そんな話を俺にするのだろうか。
そして、肝心な、俺の役割はなんなのか。
「竹井さん。俺は、医学も不死も、どっちも興味ないんですが、これって悪いことじゃないんですか」
「どうして?」
「何の罪もなく交通事故で死んじゃう人もいれば、天寿を全うできる人もいる。その違いって何なんすかね。それは、運に尽きると思うんですよ。運がすべてということは、神の存在を肯定することになるかもしれません。でも、その領域に、人間ごときが踏み込むことが許されて、なおかつ、コントロールできるということになれば、俺みたいな一般人の努力とか夢とかって、何の意味もない徒労になってしまう。」
竹井は翻す。
「はるかむかし。人がエデンの果実を食べたとき、神はこうなることをすでに知っていたとしたら」
「詭弁ですね。竹井さんはアダムの直系かなにかですか。俺は、この話を聞いて、きっと殺されるでしょう。それは仕方のないことだと思います。でも、それはあくまで、俺が密漁船に乗ることを自ら選択して、自ら切り開こうとした未来です。誰の未来でもない、俺の未来です。」
竹井さんは、眼鏡を外すと、彼女を見た。
「彼女の未来です。姫野君の未来の話はしていません」
たしかに。
彼女にも未来はあったろう。こんな施設で、何処の誰の意志はともかく、再生させられようとしているんだから、それはそれで、俺ごとき一般人では及びもつかないような背景がそこにはあるんだろう。
竹井さんは続けた。
「アナスタシア=ナタレンコ。享年92歳。」
92歳?・・・まさか。遠くて良く見えないが、20歳前後に見える。
いや、その辺は、言うまでもないか。
「彼女の父は、第1次世界大戦で日本軍との激戦を局地的には制した。しかし敗戦国となったソビエトを第二次世界大戦で大勝利に導いた英雄、・・・だったそうです。」
英雄ねぇ。平和ボケした俺たち世代には、想像もできん時代だな。
「しかし戦後、同じ戦勝国であったアメリカ軍やイギリス軍の陰謀により、彼の名誉は汚された。」
「陰謀?」
「そうです。戦後、このカムチャッカをはじめ、極東の後始末をさせられた彼女の父は、戦時、戦後に起きた略奪や暴行の罪の一切を被ることになった・・・。」
軍事法廷にかけられたナタレンコ家は、その後、地方に身を隠し、ひっそりと暮らすことになったそうだ。
軍隊時代に実力で勝ち得た財産も、その際、すべて連合国に没収されて。
竹井さんは胸元から、真新しい封筒を取り出すと、その中から丁寧に折りたたまれている紙を徐に俺に見せてくれた。どう見ても高級材質だ。100均に売ってるようなコピー用紙じゃない。ロシア語で埋め尽くされており、右下にはサインがあった。
何かの指令書のようにも見えた。
「なんですか、これ」
「現役ロシア軍、総司令官の命令書と言ったら信じるかい?」
「いや・・・信じるも何も。読めないし。」
「読んであげましょうか。」
・・・。
「い ・ や ・ だ。」
ブーブーブー。
心のサイレンが、けたたましく鳴り響く。警戒せよ。警戒せよ。
まだ絶対に遠いんだけど。どんどん、どんどん核心に近づいている。
間違いない。
知りたくもない情報が、100MBぐらいしかない俺の頭のHDDを占有していくのだ。ガリガリと。
「100年の汚辱を経て、ロシアの尊厳を復古せよ」
───くっ。
第1次世界大戦から、100年。
禁漁区でちょこっと蟹さんをかっぱらう話が、どうしてこうなった。
まだ、俺の命灯は、消えることはない。
(つづく)