海沿いの小さな街にあるその病院の窓からは、いつも決まってオレンジ色の夕陽が見えた。
僕、健太(仮名)が彼女美咲と出会ったのは、一昨年の夏だった。
共通の趣味である釣りのSNSを通じて意気投合し、初めて会った防波堤で、彼女は僕よりも大きな真鯛を釣り上げて豪快に笑った。
その笑顔に、僕は一瞬で恋に落ちた。
「健太くん、次はもっと遠くまでドライブに行こうよ」
そんな当たり前の未来が続くと思っていた。けれど、去年の秋、美咲に悪性の病が見つかった。進行は驚くほど早く、彼女は冬を迎える前に入院することになった。
✅消えゆく時間の中で
美咲は入院してからも、僕の前では決して涙を見せなかった。
病室に持ち込んだお気に入りの小説を読み耽り、僕が仕事帰りに寄ると
いつも物語の続きを嬉しそうに話してくれた。
「この主人公ね、最後にやっと気づくの。愛してるって伝えることが、どれだけ勇気のいることか」
美咲はそう言って、僕の手を握った。彼女の手は日に日に細くなり、透き通るように白くなっていった。
ある日、美咲が小さなノートを僕に差し出した。
「ねえ、健太くん。もし私が眠っている間に、伝えたいことができたらここに書いて。私が起きたら、必ずお返事を書くから」
それから僕たちの「交換日記」が始まった。
僕が夜に仕事の愚痴や、今日見かけた猫の話、そして「早く元気になって一緒に海に行こう」という願いを書く。
すると翌日の夕方には、弱々しいけれど温かい字で、美咲からの返信が綴られていた。
「今日は看護師さんに褒められたよ。ご飯全部食べたから」 「新しいリール、買ったんだってね。退院したら、一番に私の獲物を釣り上げてあげる!」
🔴その言葉だけが、僕の支えだった。
✅最後のページ
今年の春、桜が散り始めた頃、美咲の状態が急変した。
意識が混濁し、もう僕の言葉に頷くことさえ難しくなった。
それでも僕は、毎晩ノートにメッセージを書き残した。
返信が来ないことは分かっていても、書かずにはいられなかった。
「美咲、外はもう春だよ。一緒に桜並木をドライブする約束、まだ覚えてる?」 「愛してるよ。何があっても、ずっとそばにいるから」
美咲が旅立ったのは、その三日後の明け方だった。
最後に一瞬だけ目を開け、僕の手をぎゅっと握り返して、彼女は静かに息を引き取った。
葬儀が終わり、遺品を整理していた時、あのノートを見つけた。
僕の書いた「愛してる」というメッセージで終わっているはずの、その最後のページの裏。
そこには、震える手で書かれた、僕への「最後の返信」があった。 インクが滲んでいるのは、彼女の涙の跡だろうか。
健太くんへ。
今まで、たくさんの『お返事』をありがとう。 健太くんが書いてくれる毎日の小さな出来事が、私の世界のすべてでした。ごめんね。ドライブの約束、守れそうにないや。 でもね、悲しまないで。 私はね、健太くんがこれから見るすべての景色の中にいるから。風が吹いたら、それは私があなたの髪を撫でている合図。 雨が降ったら、それは私が寂しくて泣いているんじゃなくて、あなたの疲れを洗い流している証拠。 そして、海がキラキラ輝いていたら、それは私が隣で笑っていると思って。健太くん、お願いがあるの。 私の分まで、生きて。たくさん笑って。 そしていつか、白髪のおじいちゃんになった時に、また海に来て。 その時に、溜まりに溜まった『お返事』を聞かせてね。ずっと、ずっと、愛しています。美咲より
読み終えた瞬間、視界が歪んだ。
ノートの上に、僕の涙が次々と落ちて、彼女の書いた文字を青く
滲ませていく。
窓の外では、彼女が愛した海が、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。 風がそっと部屋に入り込み、僕の頬を撫でて通り過ぎる。
「……ああ、美咲。そこにいるんだね」
僕は泣きながら、返信の来ないはずのノートに、最後の一行を書き加えた。
「ありがとう。いつか必ず、全部話しに行くよ」
僕が再びハンドルを握り、海へと車を走らせることができるようになるまで、もう少しだけ時間がかかりそうだけれど。 それでも、僕の横にはいつも、目に見えない彼女が座っている。
波の音を聞くたびに、僕は彼女の声を思い出す。
「健太くん、今日は何があったの?」
僕たちの物語は、まだ終わっていない。 僕が生きる毎日のすべてが、彼女への「お返事」なのだから。