音のソムリエVol.1:Richter in Salzburg リヒテルのザルツブルク音楽祭におけるリサイタルのライブ録音

 

さて。本日から音楽についていろいろと書いて行こうと思う。

 

実際のところ、わたしはピアニストのリヒテルのリサイタルを、中学生の頃から、通算10度くらいは体験している。その最初の体験は衝撃的だった。これはメルマガなどで書いたことも多いので、何度もわたしの書いたものについて触れた方には、退屈かもしれないが、ベートーヴェンの作品10の2(第6番)と作品10の3(第7番)が前半。後半はプロコフィエフの戦争ソナタだった。

 

プロコフィエフは中学生のわたしには難しかったが、アンコールに終楽章を弾き直したのには「たまげた!」という感覚しか残っていない。ピアノはヤマハ。横浜の関内にある神奈川県民ホールで、徐々にピアノを調教していくのが彼のやり口だった。大きな熊のような体で、ピアノを揺らしていく。そうすると、ピアノの音がどんどん変化していく。最初から「何というビロードのような音なんだ!」と思ったが、それがさらに変化していく様は、圧巻だった。

 

それ以来、リヒテルの大ファンになった私は、ピアニスト志望だったもので、彼が独学である、という点も非常に参考になった。つまりネイガウス(ノイハウス)に逢う前の彼の姿と、自分の姿を重ねていたからだが。そんな彼がプロコフィエフのSinfonia Concertanteの初演の指揮者であったことなど、当時は知る由もなかった。彼がオペラのコレペティトール(劇場ピアニスト)を務めていたことなど、知りもせずに、ただ、その音のまろやかな余韻に酔いしれていた。

 

1990年からウィーンに留学した際、彼はまだ存命で、よくウィーンのYamaha工場の演奏会に足を運んだものだった。ただ、始まる時間が遅いことが多く、夜21時ごろからの開演とか。1980年代からリヒテルの演奏会は暗い明かりを灯しながら、楽譜を置いて、じっくりと音楽と向き合う形に変わっていき、それはまるで、坂東玉三郎の言っていた「あかり」の意味を彷彿とさせるもので。出光美術館に「ルオー」の名画がたくさんあるのだが、そのルオーの展示などで1985年前後に感じたイメージは、「あかりが強すぎる」だったか。今ではそんなことはないのだが、当時、まだ日本の美術館のあかりは明るすぎたと思う。それは舞台でも同じであり、そのことについて、当時、坂東玉三郎氏が警鐘を鳴らしていたのを思い出す。

 

ルオーという人はもともと、ステンドグラスの作家だった。それが油絵に至ったことで、特にわたしには、「あかり」のことについて思ったのだろう。実際、今日本国内で、美術館のあかりが明るすぎることはまずなくなったことを考えると、隔世の感がある。

リヒテルのベートーヴェン。その音がこのCDには色濃く残されていた。実際、彼のベートーヴェンのあのビロードのような音が再現されたCDを、わたしは聴いたことがない。だが、このCDだけは違うのだ。わたしはおそらく、リヒテルと名の付く録音はほぼ全て聴いて来た。でもこのCDの最初に収録されているベートーヴェンおAndante Favoriは、かつての彼の生の音を彷彿とさせてくれる、唯一の録音だと思う。

 

そして、彼が鉄のカーテンを超えて、カーネギーホール・デビューを果たした1960年。彼の地で彼のドビュッシーは音楽評論家から絶賛されていたが、当時の録音を聴くと、それほどリヒテルの音楽を伝える記録とは言えないような気がするが、このCDでは、まさしく彼の面目躍如が体験できる。ベルガマスク組曲や版画における彼の志向は、まさしく「ドビュッシー論理の人」。

 

マダム・フォン・メックとは、チャイコフスキーのパトロンとして有名だった、鉄鋼王の夫人だが、彼女のところで子供たちのピアノ教師を務めたのがドビュッシーであり、彼女のサポートで、ロシア側からバイロイト音楽祭へと繋がっていくルートというのが、当時はあったわけで、ロシアバレエ団とパリの繋がりの奥に、様々なルートがあるのを知るだけでも、このCDの価値が跳ね上がる、というものだろう。

 

ショパンについては、いつものリヒテルだが、ここでスケルツォ第2番を弾いたのは、ザルツブルク音楽祭の聴衆に対する娯楽的な意味を持つのだろうか。ワルツも秀逸なら、舟歌も絶品の歌いまわし。必聴だが、入手困難。わたしは2000年あたりにイタリアで購入した。写真はアマゾンから拝借。

 

人って真面目に

頑張ればがんばるほど

 

「悩み」のようなものを

受け取る場合があるんだよな。

 

優しい人ほど

そういったことは

多いかもしれない。

 

中でも

「この世の不条理」ってヤツ。

 

コイツとは、嫌ってほど

向き合うことになる。

 

不条理と出会うと

自分のこころに葛藤が生まれ

 

酷い場合、怒りや苦しみと

対峙することになる。

 

でも、そこから

抜け出す方法があるんだ。

 

ただ、そういうことは

誰も教えてくれないね。笑

 

ここが困った話だと思う。

 

こころの葛藤から

感情に流されてしまうと

 

眼の前に聳え立つ

チャレンジングな山登りを

諦めたりすることも多いわけよ。

 

そうやって

自分の人生は、まさしく

「自分が選択した方向」に

不本意ながら進められてしまう。

 

たしかに

どんな理由があろうと

自分がその選択をしたんだ。

 

でも、それって

「幸せな方向」に

選択したワケじゃないね。

 

これって「誤った選択」だよ。

 

「苦労は買ってでもしろ!」は

時代遅れの感覚かもしれない。

 

この世の不条理を前にして

その「苦労」を

する意味がある場合ってのは

 

たった一つだけ。

 

その「誤った選択」に気付いて

ベクトルを「意味ある」ものに

変えていく場合だけだ。

 

この「経験」は意味があったと

後付けしていく場合だけよ。

 

基本、苦労って

しなくていいものなのね。

 

ハッキリ言って必要なし。笑

 

ラクに生きられれば

それが一番なんだ。

 

みんな分かってると思う。

「楽」して幸せになるんだ。

 

大人がちゃんと

苦労しなくて済む方法を

教えてあげられるなら

 

もっと生きるのが

楽しいはずなんだ。

 

でも、社会はさ。

苦労する方を「是」としてる。

 

なぜなら

自分たちが苦労したから

 

「楽して幸せ」には

なられると困るんだ。

 

でも、その苦労の先には

幸せなんて、ないことが

ほとんどだよ。

 

人生にはサインがある。

 

そのサインを

見逃さないようにするのが

一番大事なんだ。

 

それさえ見過ごさないなら

うまくいく。

 

みんな、自分を信じないから

サインが来ても

それを打ち消して生きているね。

 

私もそうだったから

分かるんだ。

 

仮にサインを受けても

行動しないと駄目なんだよ。

 

サインを見逃したのと同じだね。

 

だって、信じないからね。

みんな自分を一番信じない。笑😆

 

それで辛い目にあっても

 

まあ、それを

うまくクリアできたら

次のステージに上がれるから

 

これは天からのテストと

思えばいいだけね。

 

トライ&エラーだな。

 

その時、大事なのは

自分の感情なんだ。

 

感情をどうコントロールするか。

 

自分の感情と

どう向き合うかで決まるね。

 

もうひとりの自分が

自分自身を苦しめないための

工夫がいるんだよ。

 

自分の頭のなかの

もう一人の自分の声を

けっして

自己批判に向けさせないこと。

 

日本人が

自分に厳しい、ってのは

 

すごい美徳にされているけど

実は、時代に全く合わないよ。

 

ココ、ほんと大事。

自分に厳しいのは

昭和に捨てるといい。

 

価値観は変わってる。

もうだいぶ前から変わったんだ。

 

自分を信じること。

不完全でいいんだ。

 

そのまんまで行くと決めれば

それでオッケーさ。

 

ホントだよ。

 

変わりたくても

人は変われないし

変わる必要がないんだよ。

 

その自分で生きるゲーム。

 

これがミッションなのよ。

それが成功へのホントの道だよ。

 

Muran

 

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Photo©中村ユタカ

ひとつの世界を極めることは

確かに大事なことでは
あるんだけれど。

やれる人は
やってみたらいい。

絶対に
行き詰まると思うんだ。

イタリアのピアニストで
ポリーニって
有名な人がいるんだけど。

1980年代は
よく日本に来てたし

当時はピアニストになるつもりで
彼の演奏会には
よく行ったんだ。

いつも、彼の演奏は
まるで修行しているみたいに
辛いものが感じられた。

私は10代からずっと
そう思ってきたんだけどね。

まるであのレオナルドが
絵画を描いたようで。

最初から描けているのに
何かが違うというか。

出来上がっているからこそ
苦しいのが分かった。

彼とは誕生日も一緒で
すごくその音楽のアプローチに
興味があって。

自分の弾くピアノにも
そういった
限界を感じていたから

限界という
「壁」を眺めながらも

その「動かない壁」を
ひたすら押しまくる、というか。

そういう音楽を演奏するように
彼の姿は見えたワケ。

更には、
彼が演奏するFMライブ放送は
当時、海外のものでもほぼ
全部録音していて

たまーに、ウィーンの楽友協会で
演奏されるリサイタルなどは
すごく情熱的だったりするんだけど

ほぼ、常にスタイルは
変わらない人だった。

その統一されたスタイルは
80歳を超えた今でも
変わらないみたいで。

そこに、深い悩みがあるような。

音楽がなにか
世界が開かれない
苦しみに聴こえてくる。

やってみたら分かるんだけどね。

必ず極めると、
壁が観えてくると思う。

レオナルドなんて

絵画の手法だったり
秘蹟やアレゴリーばかりが
目に余るから

その悪魔的とも言える
レオナルドの作風には

驚嘆はあれど残念ながら、
感動がないのよ。

そんな時、どうするかね。

ちゃらんぽらんも
時には大事だ、と言いたいね。

ぼーっとしてれば
突き詰めた世界とは
違うところに

人って行くんじゃない?

これが私の答えなんだ。

極めると言ってみたところで

実は、それを
一生続けるなんてことは
不可能だし。

どこかで言ったように

壁にぶつかり
何かしらの「変容」を
求められるものだと思うワケよ。

じゃあ、どうやって
その「変容」ってのをするか。

ここが大事なの。

私の場合は常に
新しいものと古いものを
組み合わせる。

それができるかどうか。

組み合わせるには

これまでのものとは
出来る限り遠くのものを
学んでみるんだ。

せめて数年はやってみる。

そうやって、自分のなかで
二つの柱を作り

その違いを混ぜ合わせ、
掛け合わせる。

ここが、意外と大事なとこなのよ。

私はそうやって
「組み合わせ」を考えるけど
あなたなら、どうする?

どうやって、壁を破る?
壁をぶち抜く?

Muran

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Photo ©️中村ユタカ