心理カウンセラーによる 【神との対話】解説

心理カウンセラーによる 【神との対話】解説

20年以上前に出会ったニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」を、わかりやすく解説します

少々難解といわれる「神との対話」について、解説しながら紹介していきます。

私は20年ほど前、この本に出会えたお陰で
悩みごとが消えて人生が軽く感じられるようになり、
また大好きな神さまに対して抱いていたたくさんの矛盾を、
すべて解くことができました。

この本について楽しみ、そしてぜひ手に取って読んでいただきたいと思います。
人生が変わる本です。

前回、ニールさんが迎えていた進行中の苦境のお話から、神様が「本当の愛」について説明されました。
神様は本当の愛をもつ存在として、真のマスター、真の指導者、真の王者、真の教師、真の神といった例を挙げて、そのような存在たちはどのように愛を実践するのかを説明されました。
そういった「真の愛をもつ」存在たちは、ご自分に追随してくる人たちを「自分と同等の存在」にする、とのことでした。

つまり、真の神とは人々を信者ではなく神とする(神へと成長させる)存在であり、真の教師とは最も多くの人々に知識を身につけさせる者であり、真の王者とは人々に王者らしい尊厳を身につけさせる者であり、真の指導者とは最も多くの指導者を創る者で、真のマスターとは最も多くのマスターを創り出す存在とのことでした。

 

このように追随者を自分と同等の存在にするために、真の愛をもつ存在は追随者を自身に執着させず、世界に押し出すとのことでした。
”愛をもって引きつけ、つぎに転換させ、反発させなさい”と、神様は勧めていました。
つまり真の愛の持ち主は、追随者の”自立”をもって愛を完成させ、追随者を自分と対等な立場にするのです。

 

けれども、現在、扶養する家族がある…家庭人であるニールさんが知りたいのは、”真の愛”のお話ではなく、ただ今の苦しい現状を脱する方法でした。

 

ここからが今日のお話です。

 

家庭人にとって、この道(ほんとうの愛を示す道)は大きな試練だ。
気を散らすことがいくらでもあり、現世的な心配がいくらでもある。

 

精神的な美だけを追求する者はそうしたことにわずらわされない。
パンと水をたずさえ、粗末なワラ床でやすみ、祈りと瞑想と神性を思いめぐらすことにすべての時間を捧げることができる。
そういう環境なら、神性を見ることはどれほど簡単だろう!

 

しかし、配偶者があり、子どもがあったら!
午前三時におむつを替えなければならない赤ん坊に神性を見る。
毎月1日に支払わなければならない請求書に神性を見る。
配偶者を襲う病に、奪われた職に、子どもの発熱に、親の苦痛に神の手を見る。

 

神との対話1 P157

 

ここで私は「現世での修行」という言葉を思い出しました。
「現世での修行」とは、社寺や山中など人里離れた静かな場所での修行ではなく、現世で”普通に”生きることでの修行のことです。
現世では人間関係を含めた様々な困難があります。
その中で普通に生きていくことで、”魂の修行”ができるとのことでした。

前世において山中で修行を積んだ人の魂が、生まれ変わった今世で「静かなところに行きたい」と切望することがあるそうです。
静かで自然がいっぱいの場所には、人里にはない不便さや、何日もたった一人で過ごす寂しさがあるでしょうが、山そのものや岩、動植物などの生命エネルギーが満ちていて、いつでも瞑想できる時間があります。
そのお話を聞いた時、私自身も普通の家庭人として育ち、現世で生きることの大変さを知っていたので、「確かに現世は修行の場だな」と納得していました。

 

そのような厳しい現世で、「神性」や「神の手」を見るとは、どういうことでしょうか。

 

ここでいう神性や神の手とは、「愛」や「神の計らい」という意味です。

神様が出された例で考えてみます。
午前三時におむつを替える時、「もっと寝たい」「一人になりたい」と思ってもいいのですが、「今日も子どもが元気に排泄してくれた!」「元気な子で良かった」と見ることが可能です。
毎月一日に支払わなければならない請求書が届いた時、「あぁ、支払いばかりでイヤだな」と思ってもいいのですが、「支払えるお金があることに感謝」と思うことが可能です。
ネガティブな状況の中に、ポジティブな意味づけができます。
他にも、配偶者に病が訪れたら「普段頑張っていることが分かった。休んでもらおう。私の優しさを示すいい機会だ」、職が奪われたら「もっと良い自分に合った仕事があるはず。見つけよう」、子どもが発熱したら「今日はいつもより時間を取ってこの子の顔や様子を見ることができる」、親が何かに苦しんでいたら「たくさんのしてくれたことに感謝します。親孝行として今わたしは何をしてあげられるだろう」・・・このように、苦境に「愛」や「神の計らい」を見ること、つまりポジティブにものごとを考えられる可能性を神様は伝えています。

 

あなたが疲れるのはよくわかる。
苦闘にうんざりしているのもよくわかる。
教えてあげよう。
わたしに従えば、苦闘は終わる。
神の場で暮らせば、すべての出来事が祝福になる。

 

神との対話1 P157

 

ここで神様が言う「わたし」も「神」も、自分自身(ハイアーセルフ)であることは、ここまで読んでくださったかたにはお分かりだと思います。
私たち自身のハイアーセルフは、愛に満ちた存在(神)です。
愛を思い出すことや愛に従うことは、ハイアーセルフ(神)に近づくことでもあります。

 

当時のニールさんにとって、「愛」が「苦闘」を終わらせることを理解するのは難しかったので、再び質問しました。

 

でも、失業して、家賃を払わなければならず、子供は歯医者にかからなければならないとき、どうすれば神の場に着けるのですか。
高貴で哲学的な場が、こうした問題を解決してくれるとはとても思えないんですが?

 

神との対話1 P157

 

神様のお答えは次の通りです。

 

つらいときには、真の自分を忘れがちになり、自分が選んだ人生を創造するために与えられた道具を忘れがちになる。
いまこそ神の場に行く時だ。
そこでまず大きな精神の平和が得られる。
平和な精神からは良いアイデアがあふれ出す。
そのアイデアで、あなたが抱えていると思っている問題が解決するかもしれない。

 

神との対話1 P158

 

つらい時こそ、時間を取って瞑想するなど、自分のために…自分の波動を上げるために最適なことをしなさいという神様の提言です。
意識的に自分の波動を上げることが「神の場に行く」ということです。
また、人生を創造するために与えられた「道具」というのは、以前にお話があった「思考」「言葉」「行動」のことです。

 

「神の場」に行くことは自分の波動を上げることですが、波動を上げるためには、エゴを大人しくさせて思考を前向きにするための意志が必要になります。

先ほど、夜中の三時におむつを替えるにも「イヤだ」ではなく「子どもが元気で良かった」というような、ものには別の見方…ポジティブなものの見方があるということを書きましたが、そのようにポジティブに考えるにも、最初は意志の力と時間を要します。
「子どもが元気で良かった」という当たり前のことに感謝するにも、それを心からの思いにするには(最初は)意識的な努力と、ポジティブな思いを自分に繰り返して教える”練習の時間”が必要なのです。

 

ポジティブな考えが胸に浮かび、意志や練習によってその考えがはっきりと自分のものになった時、私自身は胸が温かくなったように感じられます。
冷たく寂しく孤独だった感覚が、じんわりと温かくて誰かと繫がりのある安心した感覚に変わるのです。
不安が安心に変わります。
そうなるにも、慣れるまでは時間が必要です。

 

神様は、辛い時こそ…苦闘の最中にある時こそ、まず最初に神の場にいくべきだと言われています。
瞑想して神の場に行き、愛や繫がりを感じるのが良いです。
神の場というのは、愛を感じる場…高い波動の状態と言い換えられます。
人によっては、瞑想するのではなく、散歩に出たり掃除をしたりという行動によって神の場に行けるのかも知れません。
打ち込める趣味をしたり、推し活をしたりという行為によるのかも知れません。
自分の波動を上げてインスピレーションを得るための方法は、人によって異なりますし、また場合によっても異なる可能性があります。
今の自分に最適の、自分らしい神の場(愛の場)に行く方法を見つけると良いでしょう。

 

神の場に行くとまず最初に、精神の平和が得られ、良いアイデアがあふれ出すとのことでした。

 

第二に、神の場でこそ、あなたの自己が実現する。
それがあなたの魂の目的、唯一の目的だ。

 

神との対話1 P158

 

自己実現した状態というのは、”本当の自分らしい自分”を実現できた状態のことです。
私たちは何かを望み、情熱をもって”やりたいこと”に取り組みます。

 

当時のニールさんにとっての”自己実現”とは、「自分にとって最も適した仕事をしてお金を稼ぎ、家族とともに楽に生活する」という状態のことだったはずです。
神様は、自己実現するためにも心を穏やかにして神の場に行くよう、ニールさんに勧めていました。

 

神の場にいれば、いま経験していることはすべて、かりそめにすぎないとわかるだろう。
言っておくが、天国も地上も過ぎ去るが、あなたは過ぎ去らない。
この永遠という視点から見れば、ものがよく見えてくる。
現在の状況や環境は、一時的なかりそめのものだと、正しく考えられるようになる。
そして、それを道具として使えるようになる。

 

神との対話1 P158

 

自分が永遠の存在であることをイメージして、今の現状や環境を見てみると、確かにこの状態は一時的なものとして見えてきます。
すべては変化していくからです。
では、この一時的な状況を”道具として使う”とは、どういうことなのでしょうか。

 

まず、今ある”一時的な状況”が二ールさんのように困難な状況の場合、状況を脱するために手だてを考えることをします。
状況を脱するチャンスが来ようものなら、逃すことはありません。
即、チャンスを自分のものにするために行動することでしょう。

 

また、今ある”一時的な状況”が幸せに満ちた状況の場合、この状況を維持するために感謝を忘れなかったり周囲の人を大切にしたり、愛を育てるにはどうすれば良いかを考えたりします。
自分自身や周囲の人に気を配って、喜ばれることをしようとするでしょう。

 

このように、状況を”道具として”利用するとは、その状況に最適と思われる行動を起こすことです。

 

私たちは今の状況の中で”神の場”に行くことによって、今の状況を自分にとって良い方向へと変えていくことができます。
困難であるなら、それは脱せられます。
満足であるなら、それをさらに良くすることができます。

 

気分転換や瞑想をすることで自分の心の中に創り出す、愛・明るさ・ポジティブな思いのある場所、それが「神の場」というものです。

 

次回は、神様は人に試練を与えるのか?という話題に入ります。