12/8は天赦日であり一粒万倍日そして甲子(きのえね)でした。
朝からいそいそと、東岡崎駅ちかくの六所神社へ。
自転車に乗って、キコキコ向かいました。
先日朔日詣りをしたときに、本殿横にある大黒様にもお詣りしたのですがその時に。
『きのえね詣り』というのを貼り紙で知りました。
60日毎にある甲子は、大黒様をお詣りするのに良き日だと。
そしてすぐ次の甲子が12/8だったので、早速その日にお詣りする事に決めたのです。
その時は天赦日であるとか、一粒万倍日であるとかいうことは把握しておらず、当日気がついたようなものでした。
◇
なんだかものすごく空の気持ち良い、おだやかな朝でした。
ゆったりと落ち着いた気持ちでお詣りを済ませ、ふと目にした看板に。
六所神社の改修工事にあたり寄進を募る内容がありました。
一口二千円で、檜皮1枚。
今までこういった寄進はお恥ずかしいながら経験がありませんでした。
しかしこの日は悩むことなく自然な気持ちで、寄進しようと決めました。
まずはささやかに、一口だけですが。。
それでも手続きを済ませ、社務所の方々に『ありがとうございました』と言っていただいたとき、とてもあたたかな気持ちになりました。
◇
祈る、という行為について。
頭に残るなかで一番古い『祈り』の記憶は小学生のとき。
生まれたばかりの従弟の心臓に問題があり、手術となりました。
学校で毎日、授業の合間に思い出したら手を合わせていました。
手術の前も、術後も。
なんとなく手を合わせずに過ごしていたある日の午後
働いているはずの母が突然学校に私を迎えに来ました。
全てを察した私は自分を責めました。
自分の祈りが足りなかったのだと。
小学生なりに、色々考えていたんですね。
確か、低学年だったと思うのですが。
中学高校をカトリック校で過ごした私は
6年間毎日祈りの時間がありました。
思春期のあの頃、何を祈っていたのだろう?
記憶があやふやすぎるのですが・・
自分の中の悩み苦しみをぶつけていたような気がします。
そして1番近い記憶は東日本大震災の、あと。
ボランティアマッサージにお邪魔するようになって
現地の方々とお話する機会を持つことができました。
顔を見て、体に触れて、お話をして。
祈るときはいつも、お会いした人達の顔が浮かびます。
皆さんが元気でいられますように、と。
振り返ると『祈る』時には
根っこに誰かを思うという気持ちがありました。
でも最近思ったんです。
『祈る』という行為は、誰かのためにしているようでいて
実は自分自身を強く支えてくれるものなのかもなぁと。
私たちは、自分自身への直接的なダメージよりも
大切な、かけがえのない誰かに何かがあったときのほうが
もしかしたら打撃が大きいんじゃないかと思います。
ともすれば崩れてしまいそうになる。
『祈る』ことは、そんな自分をなんとか支える有効な手段のひとつなのかもしれません。
◇
六所神社では
私の大切な人達の心のありようが
できうる限り、平穏でありますように。
と、お祈りしてきました。
どうにもならない事も色々あるけれど
心のありようだけはきっと
自分次第でなんとかなる幅が広いはず。
ヨガを通じて学んだことが
心から溢れだす朝でした。
にわとこホームページ
http://niwatoco.jimdo.com
朝からいそいそと、東岡崎駅ちかくの六所神社へ。
自転車に乗って、キコキコ向かいました。
先日朔日詣りをしたときに、本殿横にある大黒様にもお詣りしたのですがその時に。
『きのえね詣り』というのを貼り紙で知りました。
60日毎にある甲子は、大黒様をお詣りするのに良き日だと。
そしてすぐ次の甲子が12/8だったので、早速その日にお詣りする事に決めたのです。
その時は天赦日であるとか、一粒万倍日であるとかいうことは把握しておらず、当日気がついたようなものでした。
◇
なんだかものすごく空の気持ち良い、おだやかな朝でした。
ゆったりと落ち着いた気持ちでお詣りを済ませ、ふと目にした看板に。
六所神社の改修工事にあたり寄進を募る内容がありました。
一口二千円で、檜皮1枚。
今までこういった寄進はお恥ずかしいながら経験がありませんでした。
しかしこの日は悩むことなく自然な気持ちで、寄進しようと決めました。
まずはささやかに、一口だけですが。。
それでも手続きを済ませ、社務所の方々に『ありがとうございました』と言っていただいたとき、とてもあたたかな気持ちになりました。
◇
祈る、という行為について。
頭に残るなかで一番古い『祈り』の記憶は小学生のとき。
生まれたばかりの従弟の心臓に問題があり、手術となりました。
学校で毎日、授業の合間に思い出したら手を合わせていました。
手術の前も、術後も。
なんとなく手を合わせずに過ごしていたある日の午後
働いているはずの母が突然学校に私を迎えに来ました。
全てを察した私は自分を責めました。
自分の祈りが足りなかったのだと。
小学生なりに、色々考えていたんですね。
確か、低学年だったと思うのですが。
中学高校をカトリック校で過ごした私は
6年間毎日祈りの時間がありました。
思春期のあの頃、何を祈っていたのだろう?
記憶があやふやすぎるのですが・・
自分の中の悩み苦しみをぶつけていたような気がします。
そして1番近い記憶は東日本大震災の、あと。
ボランティアマッサージにお邪魔するようになって
現地の方々とお話する機会を持つことができました。
顔を見て、体に触れて、お話をして。
祈るときはいつも、お会いした人達の顔が浮かびます。
皆さんが元気でいられますように、と。
振り返ると『祈る』時には
根っこに誰かを思うという気持ちがありました。
でも最近思ったんです。
『祈る』という行為は、誰かのためにしているようでいて
実は自分自身を強く支えてくれるものなのかもなぁと。
私たちは、自分自身への直接的なダメージよりも
大切な、かけがえのない誰かに何かがあったときのほうが
もしかしたら打撃が大きいんじゃないかと思います。
ともすれば崩れてしまいそうになる。
『祈る』ことは、そんな自分をなんとか支える有効な手段のひとつなのかもしれません。
◇
六所神社では
私の大切な人達の心のありようが
できうる限り、平穏でありますように。
と、お祈りしてきました。
どうにもならない事も色々あるけれど
心のありようだけはきっと
自分次第でなんとかなる幅が広いはず。
ヨガを通じて学んだことが
心から溢れだす朝でした。
にわとこホームページ
http://niwatoco.jimdo.com