みなさま、こんばんは。

 

茨城の実家に戻ってきました。

今日は、月も星も綺麗ですキラキラ

 

最近運動不足だったので、最寄りの駅から実家まで2kmほどの道のりを歩きました。

 

道すがら、なぜか数年前、年末年始の時間を使って見た孔子とその弟子たちを描いたドラマについて思い出していました。

中でも印象的だったのが、いしだ壱成氏が演じる、孔子の一番弟子・顔回(がんかい)。

 

最初は正直なところ、日本人であり、しかもお父さん譲りなのか女性関係にゆるい印象のいしだ壱成さんが、弟子の中で最も愛された顔回を演じるなんて、どう考えてもミスキャストじゃないかと思っていたほど。

 

ところが、フタを開けたら、いしだ壱成さんが日本人であることも俳優さんであることも忘れてしまうくらいのハマり役で、まるで顔回が憑依しているんじゃないかと思いました。

 

 

 

 

 

 

顔回は若くして病に倒れ、早逝するのですが、その時の孔子の嘆き方がそれはそれは悲しく切なく、私も号泣してしまったほどです。

 

 

今日は『論語』の顔回について触れている箇所をご紹介します。

 

哀公問、弟子孰爲好學。孔子對曰、有顏回者、好學。不遷怒、不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也。

ーー『論語』雍也第六

 

 

哀公が孔子先生にこのようにおたずねになられた。
「お弟子さんたちの中で誰が一番学問が好きなのでしょう」
すると、孔子先生がこたえらました。
「顔回と申すものがおり、たいへんな学問好きでした。怒りを表さない、過ちをくりかえさない。こういうことは、なかなかできることではありませんが、それが顔回にはできたのでございます。しかし、不幸にも短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔回なきあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はおりませぬ」

 

 

顔回は、まさに命がけで学び続けた人でした。

昔は、今のように義務教育ではなく、勉強したくてもおいそれと学べる環境にはありませんでした。

それが学問への情熱をかき立てた、と言えなくもありません。

 

 

 

反対に今は勉強したくないのにさせられる、学校に行きたくないのに行かされる環境です。

 

国としては、国民全てに教育を施すことは福利であり、サービスなのだと言えなくもありませんが、人間というものは人から強制されるのではなく、自ら選びたい生き物なのではないでしょうか?

 

ちなみに、日本語の「勉強」という言葉は中国語では、「強要する」とか「無理をする」というような意味になり、学習するという意味合いはありません。

 

 

学校に行かなかったり、引きこもったりする人が多いのは、社会全体が「大きなお世話的押し売り」モードになっているからなのではないかと思います。

 

 

本来社会はもっと自由でいいと思います。

 

学校に行きたい人は行けるようにみんなでサポートし、行きたくない人はその人の考えや行動が尊重されるようにサポートする。

外へ出て働きたい人は思う存分働く。

働きたくない、とかなんらかの理由で働けないとか、生活のためにお金を稼ぐことよりももっと別のことにエネルギーを注ぎたい人も、みんな一人ひとりがお互いを助け合って、尊重できるような社会を作って行けたらいいと思うのです。

 

 

今、私たちが当たり前と思っていて、しかもその当たり前が窮屈な社会であるのなら、一度原点に立ち帰り、私たちが生きる意味や目的というものを丁寧に捉え直す時が来ているように思います。

 

このドラマは、きっとそういった命題を私たち一人ひとりが考えるきっかけになると思います。

 

 

それではみなさま、また明日!