「祖父との1番の思い出は、毎年、年末年始を一緒に過ごしたことです」

 

祖父の葬儀で弔辞を読ませてもらったときに、こう言いました。

 

4月14日に祖父が亡くなり、2カ月が過ぎました。

最初の1週間は、なんだか夢のようで、時間の経過もあっという間でしたが、

四十九日を終え、それとなくいつもの生活が戻ってきたようなところです。

 

3月に白馬に来ましたが、3月中はインフルエンザ感染を考慮して

祖父のいた老人ホームは面会を禁止していました。

4月になれば顔を見られると思っていた矢先、結局、会えずじまいで、

祖父が亡くなった約1時間後に老人ホームに到着し、やや冷たくなった顔を見ました。

 

Facebookや地域紙では祖父の訃報が回り、そのおかげで声をかけて頂くことも多く、

実に多くの方々に支えられ、ここまでやってきたのだと実感しました。

本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

ここ最近は、なかなか自分の時間を取れずに過ごしていましたが、

ここで祖父とのことをブログにまとめておこうと思いました。

2ヶ月経過したからこそ感じ取れたことや、祖父が生きた白馬に今自分がいることなど、

さまざまな思いがあります。

 

まず、27歳にして、祖父母の誰かが亡くなるというのは初体験でした。

小さい頃は、もちろん、ずっと祖父母が元気でいるわけではないと思っていましたが、

こんな大人になるまで生きているものだとは…。

大人が故の落ち着きと、大人になるまで一緒だったからこそのやや大きな喪失感が

共存しています。祖父は大正15年生まれだったので、大往生といっていいでしょう。

 

幼い頃は、白馬に来ると、祖父の車に乗り込み、2人で養豚場へ行って、

よく豚を見ていました。夕飯の支度をする時間帯、小さいやんちゃ少年のお守り役をしていたのが、祖父です。真っすぐ帰れば良いのに、無駄に山道を運転して帰る祖父は、孫を連れて出かけるのが楽しかったのでしょう。しかし、僕が中学、高校、大学の間は、それなりに生活も忙しく、年末年始だけ白馬に帰るというのがパターン化していきました。

 

 

オーストラリアの高校へ長期留学したとき、1番手紙を送ってくれたのは祖父です。

必ずといっていいほど、写真が同封されており、元気な様子が伝わってきました。日本で起きたニュースなどの時事情報も交えたり、近所の様子を伝えてくれたりして、異国の地にいた僕を精一杯サポートしてくれました。

 

大学在学時は、ゼミ活動で制作に携わった戦争を題材にした映像も見てくれ、

「あの頃はこうで…」と、10分間の映像に対して30分のコメントをくれた祖父を今でも覚えています。

 

振り返ってみれば、実にいろんなことがありました。

千葉と白馬、離れて生活をしていた割には、よく語り合っていた爺と孫だと思います。

 

実は、葬儀前に、孫が弔辞を読んだらどうかと、祖母が提案しました。

話は進み、僕は内容をどうするか考えましたが、正直、これといった思い出が浮かばなかったのです。振り返れば結構あったのに…。

 

ただ、僕は家族の中では唯一、毎年、年末年始を祖父と過ごしていました。

長期留学の年も、受験の年も、就活の年も、社会人になってからも、毎年、白馬に顔を出して、祖父母と年越しを迎えていました。忙しい生活の中でも、これだけは変わらず、過ごしてきました。年に2日か3日くらいしか会えなかったといえばそうですが、僕の変わらないルーティンみたいなものでした。

 

こういう過ごし方だったからこそ、「存在」というものを意識したのかもしれません。

これまで、祖父の近くで育ったわけではないですし、直近は半年会っていなかったのに、

葬儀では思わず涙してしまいました。「会えない」という事実は変わらないのに、

「すぐそこにいる」のと、「もうこの世にいない」のは、全然違います。恥ずかしながら、こういう感覚を味わうのは、初めてかもしれません。

 

白馬へ移住してきてから祖父に会うことは叶いませんでした。

ただ、寂しくなった祖母にとって、孫が近くに来たことは、プラスだったのかと思います。

「爺さんのお茶変えてくれや」と毎朝祖母から声がかかり、仏壇に手を合わせる日常です。

近くに祖父の「存在」を感じつつ、僕自身も、「存在」のある人間になれたらと思います。

 

爺さん、92年間お疲れ様でした。

ゆっくり休んでくださいませ。

 

追伸:この前車屋さんに行ったら、「へえお孫さんかい!昔は爺さんによく怒られちゃー怒鳴られたもんで」と声をかけられました。爺さん、勘弁してくれ…。