どうやら、簡単には行かせてくれないみたいだね
リナの言葉に、アキトの全身に緊張が走った。目の前の木々の根元に群生する黒い花。その中心に、いくつものギラつく巨大な蜘蛛の目が、アキトたちを捕らえていた。そこから這い出てきたのは、禍々しい瘴気を纏う巨大な蜘蛛だった。その姿は、まるで森の腐敗そのものが形を得たかのようだった。
「ひっ……!」
アキトは思わず声にならない悲鳴を上げた。足がすくみ、体が硬直する。こんな巨大な生き物と対峙するのは初めてだった。
しかし、リナは違った。彼女は瞬時に腰の小刀を抜き、低い姿勢で構えた。
「アキト、あんたは後ろに下がってな!こいつは私が引き受ける!」
リナはそう叫ぶと、躊躇なく蜘蛛へと斬りかかっていった。彼女の動きは俊敏で、小刀は風を切り、蜘蛛の硬い外骨格に火花を散らす。しかし、蜘蛛は巨大で、その動きは素早く、リナの攻撃を巧みにかわしながら、漆黒の糸を吐き出して反撃してきた。リナは身軽にかわすが、その糸には瘴気が含まれているのか、地面に触れると草木が枯れていく。
アキトは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。心臓が激しく鳴り、全身が恐怖に震える。自分は何のためにここへ来たのか。村を救うため、生命の石を探すため……。しかし、こんな巨大な敵を前に、臆病な自分には何もできない。リナが、危険を冒して自分を守ってくれているのに。
その時、アキトの耳に、微かな声が届いた。それは、目の前の**「記憶の植物」**の声だった。
「……助けて……我らは苦しんでいる……」
「……生命の石は、光を……」
植物の「声」は、弱々しく、苦痛に満ちていた。そして、アキトの足元に生えている小さな草からも、助けを求める声が聞こえた。その草は、蜘蛛の瘴気に侵され、今にも枯れそうになっていた。
アキトは、その草にそっと手を伸ばした。すると、彼の掌から微かな光が溢れ出し、草の葉の黒ずみが薄れていく。それは、アキトの持つ、植物の生命力を引き出す力だった。
「この力……もしかして……」
アキトはハッと顔を上げた。蜘蛛と戦うリナの姿が見えた。彼女もまた、苦戦している。
「僕も、何かできるはずだ……!」
アキトは恐怖を振り払い、目を閉じて意識を集中させた。森の全ての植物の「声」が、彼の中に流れ込んでくる。苦しむ声、助けを求める声、そして、どこか遠くから聞こえる、純粋な「生命の光」を求める声。
その時、アキトの視界に、一筋の輝きが飛び込んできた。それは、枯れかけた蔓に絡みつくように咲いている、小さな白い花だった。その花からは、周囲の瘴気をはね返すかのような、清らかな生命の力が溢れ出ていた。
「あれだ……!あれが、『精霊の木の実』に違いない!」
アキトは直感した。老婆の言っていた「精霊の木の実」は、木の実ではなく、このような花のような形をしているのかもしれない。
リナは蜘蛛の攻撃をかわしながら、アキトに叫んだ。「アキト!何を見つけたんだ!?」
アキトは震える声で叫んだ。「リナ!あそこに白い花が!あれが多分、『精霊の木の実』だよ!」
リナは一瞬、蜘蛛の動きを止め、アキトの指差す方向を見た。その隙を突いて、蜘蛛が鋭い爪を振り上げた。
「危ない!」アキトは叫んだ。
その刹那、アキトは無意識のうちに、掌から放たれる生命の光を、蜘蛛の目へと向けた。光は蜘蛛の目潰しとなり、一瞬ひるんだ蜘蛛の隙に、リナは素早く懐に入り込み、その小刀で蜘蛛の柔らかい腹部を一突きにした。
「ギャアアア!」
蜘蛛は断末魔の叫びを上げ、その巨大な体は地に伏し、やがて瘴気となって霧散した。
リナは息を弾ませながら、アキトを見た。
「まさか、あんた、そんな能力があったなんてな……!助かったよ、アキト!」
アキトは自分がやったことに驚きながらも、安堵の息を漏らした。恐怖の中、彼は初めて、自身の秘めた力を意識的に使ったのだ。そして、その力が誰かの助けになったことが、彼の自信へと繋がった。
アキトは白い花へと駆け寄り、その花をそっと摘み取った。花は掌で温かい光を放ち、アキトの心を安らかにした。
そして、彼は「記憶の植物」の根元へと進み、その花をそっと捧げた。
花が置かれた瞬間、記憶の植物全体が淡い光を放ち始めた。光は次第に強くなり、やがてアキトの脳裏に直接、映像が流れ込んできた。
それは、遥か昔の光景だった。
泉がまだ清らかで、生命の石が輝いていた頃のホシガクレ村。そして、石が何者かに持ち去られる瞬間。石が奪われたことで、泉の精霊が悲しみ、森がゆっくりと力を失っていく様子……。
そして、映像は現代へと戻る。
瘴気は、生命の石が失われたことによる森の悲しみと、それに乗じて増殖した、古の悪しき「闇の種」の力だということが分かった。そして、生命の石は、森のどこかではなく、遥か遠く、人里離れた「忘れられた高台」と呼ばれる場所にある廃墟に隠されていると示された。
「忘れられた高台……」
アキトは、映し出された場所の光景を脳裏に焼き付けた。それは、ここからさらに遠く、危険な道のりであることを示唆していた。しかし、アキトの心には、もはや恐怖よりも、希望と使命感が強く宿っていた。
リナがアキトのそばに駆け寄った。「どうだった、アキト?何か分かったのかい?」
アキトは、まだ興奮冷めやらぬ表情で、記憶の植物が示してくれた真実をリナに語った。リナは真剣な顔でその話を聞き終えると、アキトの肩をポンと叩いた。
「なるほどね。じゃあ、次の目的地は『忘れられた高台』ってわけだ。ここからが、本番ってことだね、アキト坊や」
彼女の言葉に、アキトは力強く頷いた。臆病だった少年は、一歩ずつ、しかし確実に、困難を乗り越える勇気ある旅人へと変貌を遂げていた。
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薬屋の老婆から古地図と新たな使命を受け取ったアキトの胸には、期待と不安が入り混じっていた。隣でリナが腕組みをして「さて、と。森の奥の『囁きの道』ねぇ……なんだかワクワクするじゃないか!」と楽しげに言った。彼女の堂々とした態度が、アキトの緊張を少しだけ和らげた。
翌朝早く、アキトとリナは「風渡りの里」を出発し、「古き森」へと向かった。森の入り口は、里の活気とは打って変わって、ひっそりと静まり返っていた。木々は鬱蒼と茂り、昼間だというのに薄暗い。森の奥から、冷たい風に乗って微かな腐敗臭のようなものが漂ってくる。これが、里の人々が恐れる瘴気なのだろう。
「気をつけな。この先の森は、ただの森じゃない。迷いやすい上に、悪いものもいるって話だ」
リナが真剣な表情でアキトに注意を促した。アキトは固唾を飲み込み、地図を片手に先導するリナの背中を追った。
森の奥へと進むにつれて、瘴気の気配はさらに濃くなった。木々の葉は黒ずみ、地面には枯れた植物の残骸が散らばっている。生命の息吹が失われたかのような光景に、アキトは故郷の泉と重なり、胸が締め付けられる思いがした。
やがて、彼らは地図に示された**「囁きの道」**の入り口へと辿り着いた。そこには、古びた石碑がひっそりと立っており、見慣れない文字で何か刻まれている。石碑の周りの木々は、特にひどく瘴気に侵され、今にも朽ち果てそうだった。
道に足を踏み入れた途端、アキトは全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。森全体から、無数の声が聞こえてくるのだ。
「こちらへおいで……」
「お前の求めるものは、あちらだ……」
「疲れただろう?休んでいけばいい……」
それらは、まるで耳元で囁かれているかのように聞こえ、アキトを特定の方向へ誘惑しようとする。頭の中に直接響くような、不気味な声の洪水に、アキトは思わず耳を塞いだ。
「どうしたんだい、アキト?何か聞こえるのか?」
リナが訝しげにアキトを見た。彼女には、その声は聞こえていないようだった。アキトはどもりながら「こ、声が……森の声が……」と答えるのが精一杯だった。
「森の声だって?まったく、あんたは変な能力を持ってるねぇ。でも、そういう時は無視するに限る!直感を信じて進むんだ!」
リナはそう言って、躊躇なく道を進み始めた。彼女の力強い言葉が、アキトを正気に戻した。そうか、これは「囁きの道」の試練なのだ。心が惑わされそうになる誘惑の声に、アキトは必死に抵抗した。
アキトの特別な能力が試される場面だった。彼は目をつぶり、耳を塞いだが、植物の「声」は彼の内側から響いてくる。惑わす声の中に、微かに、しかし確かに聞こえる、正しい方向を示す植物たちの「囁き」があった。それは、苦しみに耐えながらも、彼を導こうとする森の本当の声だった。
「リナ!こっちだ!この道だ!」
アキトは、直感で正しい方向へと進むリナの腕を掴み、別の方向を指差した。最初は怪訝な顔をしていたリナも、アキトの真剣な瞳を見て、その指示に従った。
いくつもの分かれ道で、アキトは植物たちの声に耳を傾け、正しい道を選び続けた。時には道が途絶え、時には瘴気が特に濃い場所を通り抜けなければならなかった。そのたびに、アキトは自身の能力を信じ、リナの助けを借りながら、一歩ずつ奥へと進んでいった。
そして、どれくらいの時間が経っただろうか。囁きの道の最奥に、一際大きな木が見えてきた。その木の周りだけは、瘴気の影響が薄く、微かな生命の光が感じられた。
「あそこだ……あの木が、『記憶の植物』に違いない!」
アキトは確信した。しかし、その木の根元には、不気味な黒い花が群生していた。その花からは、瘴気とは異なる、しかし同じように不吉なオーラが放たれている。そして、その花の中心には、ギラリと光る巨大な蜘蛛の目が、アキトたちをじっと見据えていた。
「どうやら、簡単には行かせてくれないみたいだね」
リナが、腰の小刀に手をかけながら言った。アキトの目の前に、最初の本格的な敵が立ちはだかっていた。
宿の主人から古びた薬屋の情報を得たアキトは、逸る気持ちを抑えきれずに市場へと急いだ。リナにこの情報を伝えなければ。彼女なら、きっと良い知恵を貸してくれるはずだ。市場の喧騒の中、アキトはリナを見つけ出し、宿で聞いた話を興奮気味に伝えた。
「古の森の瘴気……そして、奇妙な老女の予言?なるほど、こりゃ面白くなってきたね!」
リナは目を輝かせた。「その薬屋、私も何か仕入れられる物がないか見てくるつもりだったんだ。ちょうどいい、一緒に行こう!」
リナの行動力はアキトを圧倒する。彼女に連れられるようにして、二人は里の南外れにある、苔むした小さな薬屋へと向かった。
薬屋の戸を開けると、独特の薬草の匂いがアキトの鼻腔をくすぐった。店内は薄暗く、壁には乾燥した薬草や、見たこともない奇妙な瓶が所狭しと並べられている。店の奥から、カタカタと薬研を動かす音が聞こえてきた。
「ごめんくださーい!」リナが遠慮なく声をかけると、奥から一人の老婆が現れた。顔には深い皺が刻まれ、その目は全てを見通すかのような鋭い光を宿している。彼女こそ、宿の主人が話していた「奇妙な老女」に他ならなかった。
アキトは身を硬くしたが、リナは臆することなく商談を始めた。その間、アキトは店の隅に置かれた古びた書物棚に目が留まった。埃を被ったその本棚には、この地の歴史や伝説に関する書物が並んでいる。一冊の本がアキトの目を引いた。表紙には、見慣れない文字で「古き森の守護者と泉の秘密」と記されている。
アキトが本を手に取った瞬間、背後から老婆の声が響いた。
「ほう……その本に興味があるのかい、坊や?」
アキトはビクッと体を震わせ、本を落としそうになった。老婆はアキトにゆっくりと近づいてくる。その目は、アキトの奥底にある秘密を見透かすかのようだった。
「あんたの故郷の泉は、今、苦しんでいるね?わしにはわかるよ」
老婆の言葉に、アキトは驚きを隠せない。彼女は何も言っていないのに、どうしてそれを知っているのだろうか。
「まさか、あの予言の……!」アキトは思わず口を開きかけたが、リナがすかさず彼の横に立った。
「おばあさん、この子は少し変わってるんです。ご迷惑でなければ、泉のことで少しお話を聞かせてもらえませんか?」
リナがそう問いかけると、老婆はふっと笑みを浮かべた。その笑顔は、どこか寂しげだった。
「良いだろう。ちょうど退屈していたところだ。だが、話を聞くだけでは何も解決しない。泉の秘密に触れるには、ある試練を乗り越えなければならないよ」
老婆はアキトに、一巻の古びた地図を差し出した。その地図には、古の森の深部へと続く複雑な道筋が描かれ、所々に奇妙な印が記されていた。
「古き森には、**『囁きの道』と呼ばれる場所がある。そこは、真実を求める者だけが進める道。多くの者が迷い、二度と戻らなかった場所だ。そして、道の中央には『記憶の植物』**と呼ばれるものが生えている。その植物は、森の過去と未来、そして泉の真実を映し出すという。だが、その力を得るには、**失われた『精霊の木の実』**を見つけ出し、記憶の植物に捧げなければならない」
老婆はアキトの瞳をまっすぐに見つめた。
「坊や、お前には、その植物の声が聞こえるだろう?ならば、この試練に挑む資格がある。だが、瘴気は日に日に強まっている。急がないと、森は完全に死に絶え、泉も永遠に失われてしまうだろう」
アキトの心臓が激しく脈打った。精霊の言葉と、老婆の言葉が繋がり、泉の謎が少しずつ明らかになっていく。同時に、目の前に立ちはだかる新たな困難の大きさに、再び恐怖が込み上げてきた。しかし、彼には頼りになるリナが隣にいる。そして、何よりも故郷を救いたいという強い思いが、彼の背中を押していた。
アキトは、震える手で老婆から地図を受け取った。
「僕、行きます!『精霊の木の実』を見つけて、泉を救ってみせます!」
アキトの言葉に、老婆は満足そうに頷いた。リナもまた、アキトの決意に静かに目を細めていた。