浅田舞さんのモデルオーディションについての詳しい記事は、私(ロクハン)は知りませんでした。

浅田舞さんについては、

『Number667号
2006年12月14号
「ナンバーフィクション
姉妹。浅田舞 深い闇からの覚醒」』

の記事に詳しく載っています。

浅田舞さんは、
テレビ朝日の
『しくじり先生俺みたいになるな!!』

の番組でも
『妹が天才過ぎてグレた』
のタイトルで、浅田舞さんの物語が紹介されましたが。

この時は、確か、浅田舞さんがモデルオーディションに優勝した話は無かったと思うのですが。

(以下の内容は、
『Number667号
2006年12月14号
「ナンバーフィクション
姉妹。浅田舞 深い闇からの覚醒」』
から引用しています)


浅田舞さんが15歳から
16歳当時、

家出をしたり、

スケートの練習をしたくないから、スケートリンクのトイレに長時間(3時間)閉じこもったり、

お母さんと殴り合いの
ケンカをしたり、

「ママと取っ組み合いのケンカをすると、真央が隣で泣いていた」

真央は、
「ママ、ママ、もう舞なんか、いいよ。
スケート、やめちゃえばいい。
真央が頑張るよ、真央が舞の分も頑張るよ。
だから、もう泣かないで、ママ」


浅田舞さんは、2度
世界ジュニア選手権に
出場している。

1度目は、3A(トリプルアクセル)を着氷して4位になっている。

3Aは、着氷したが、着氷が回りすぎたと、正式には3Aは認定されなかった。

2度目は、
食中毒で最悪のコンディションで臨んだ試合。

それでも4位だった。

(この時、優勝したのは
安藤美姫)

食中毒でなければ、もっと上位へ上がれたはず、

浅田舞さんは、それが
悔しくて、以降も、ケガが続いたり、不幸の連続だった。

「スケートを辞めたい」と思うようになった。

しかし、全日本選手権でも6位。

ガチガチのスケートママだったお母さんは、

浅田舞さんをスケートから辞めさせようとはしなかった。

「浅田真央の姉」とメディアから呼ばれるのが
嫌だった。

それで、気分転換に、とお母さんに勧められたのが、

「第2回国際モードルオーディション」
への応募だった。

そこで、まさかの優勝だったのです。

まあ、浅田舞さんは、
美人だから、優勝はするでしょうけど。

浅田舞さん自身にとっては、気持ちが、落ち込んでいたので、この時の
優勝は、嬉しかった。

お母さんは、
「言っても分からないなら、何か別の目標を持たせてみようと思った。

スケート以外の世界に接すれば、見えてくるものもあるだろうし、そこでの経験がまたスケートに生きる。

スケートが終わりになるのではなく、選手として、またやっていけるようになるんじゃないか、って考えたの。

まさか、グランプリをもらえるなんて思ってもみなかったけど」

でも、浅田舞さん自身は、

「何かが違う」
と感じるようになり、また、スケートをやるようになるのです。

高校3年生の時、

ホリプロへの契約も終了させて、

真央さんとともに、アメリカに渡り、

アルトニアンコーチの元、アメリカでスケートの練習をするようになるのです。

その後、日米対抗戦
グランプリシリーズにも出場します。




●浅田舞が転身宣言!フィギュアからモデルへ/復刻

(日刊スポーツ)

 プレーバック日刊スポーツ!
 過去の3月22付紙面を振り返ります。

2005年の芸能面(東京版)は高校1年生の浅田舞がフィギュアから転身宣言でした。

 ◇ ◇ ◇

 あっと驚く転身宣言だ。

女子フィギュアスケート界の実力派・浅田姉妹の姉、舞(16=東海学園高)が

21日、岐阜市内での第2回国際モードルオーディションでグランプリを受賞した。

大手芸能事務所「ホリプロ」などが次世代のタレント発掘を狙い主催したもので、

応募者5345人の頂点に立った。

安藤美姫(17)らとしのぎをけずる美しき実力者がフィギュアを事実上引退。

「モデル、女優になりたい」と新たな世界に踏み出した。

 全国5345人の頂点に立った瞬間、

切れ長の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

最終審査に残った10人の中から自分の名前が読み上げられた。

小さな顔を両手で覆い

「信じられません。うれしくてうれしくて」

と声を震わせた。

 フィギュアの大舞台では味わったことのない喜びだった。

ライバル安藤が優勝した昨年3月の世界ジュニア選手権で、浅田は4位。

安藤、荒川、村主ら世界最高レベルの女子フィギュアのトップ大会では頂点をつかめなかった。

その中で今後を考えた末の結論だった。

「今の女子のレベルは高く、自分がそのレベルに到達するまで時間がかかります。

今の年でできることを追求したいと思いました」

と氷上に決別する覚悟をした。

1月26日の全国高校スケートで優勝しながらも、

全日本強化選手から漏れた。

進路の切り替えに迷いはなくなった。

1月末、オーディションに書類を出した。

 応募のときには、先日の世界ジュニアで優勝した妹真央(14)から

「お姉ちゃん頑張って、絶対グランプリとって来て」

と激励されたという。

今後は趣味としてスケートリンクに立つことはあっても、

本業をモデル、女優にスタンスを移すことを決意した。

 コンテストでは、ウオーキングや、特技として披露したクラシックバレエの実技でも非凡なセンスを見せつけた。

審査員からは

「内面、外面から出てくる表現力が素晴らしい」

と高く評価された。

「モデルは小さいころからの夢でした。

これからは見る人を喜ばせられるモデル、女優になりたい」。

賞金100万円については

「本当は洋服を買いたいんですけど、お母さんに渡します」

と、高校1年生らしい初々しさものぞかせた。

 初仕事は5月14日、地元愛知で開催中の「愛・地球博」EXPOホールで行われるショーのモデル。

 -受賞の感想は

 「周りの方々(最終予選出場者)がモデルのような人ばかりで、自信を失っていました。

受賞できて本当にビックリしています。

もううれしくて信じられません」

 -今後スケートは続けるのか

 「スケートも大好きですが、自分では遊びの中で今後も続けたい。

完全にやめるのではなく、空いている時間にやりたい」

 -スケートに未練は

 「自分で決めてオーディションを受けたので、モデル中心に頑張りたいです」

 -家族は何と

 「小さいころから自分の好きなことをやらせてくれた。

今回も心配するというより、頑張ってきてと言われました」

 -今日はオーディションでクラシックバレエも披露したが

 「小学校のころから始めたのですが、趣味で週に3回ぐらいやっています」。

 -今回の応募のきっかけは

 「たくさんの人の前で踊ったり、注目されることが好きなので

『モデルになって注目されたい』と思い、

雑誌を見て応募しました」

 -普段はどのようにオシャレに気を使っているのか

 「スカートが多いのですが、雑誌を参考にしています」

 -目標の芸能人は?

 「好きなタレントは深田恭子さんです。

穏やかで上品なところが素敵だと思います」


◆主な女子フィギュアトップ選手たちの引退後◆

 渡部絵美(80年レイクプラシッド五輪代表)
 79年まで全日本8連覇。80年の引退後、タレントとプロスケーターに。
ドラマ「青い絶唱」にも出演。
01年参院選で、自由連合から比例代表で出馬し落選。
同年に、野村沙知代さんに「醜い」と言われ、バトルを展開した。


 カタリナ・ビット(84年サラエボ五輪代表)
 サラエボ、カルガリー五輪金メダリストが98年、米男性誌「プレイボーイ」で、ヌード姿を披露。
豊満なボディーをあらわに。


 八木沼純子(88年カルガリー五輪代表)
 中3時、初出場の全日本選手権で2位。
カルガリー五輪では14歳で最年少代表に。
95年からフジテレビでスポーツキャスターに。


 伊藤みどり(92年アルベールヒル五輪銀メダル)

小5だった80年、世界ジュニア選手権フリーで優勝。
アルベールビル五輪、五輪史上女子初のトリプルアクセルを決め銀メダル。
98年長野五輪では、TBSのキャスターを務めた。


 トーニャ・ハーディング(94年リレハンメル五輪代表)
 94年五輪の米国代表選考を巡り、ライバルへの襲撃事件を起こし、一躍有名になった。
数々のトラブルを巻き起こし、03年にはプロボクサーデビュー。
「リンク」から「リング」への異例の転身となった。


※記録と表記は当時のもの

<日刊スポーツ:
2005年3月22日付>

(03/22 15:46)