日本の反戦映画は、

アメリカ兵を決して悪く言わない。

 

地上波でやるドキュメンタリーもドラマも、戦時の残酷さは描写してあまりあるが

アメリカ人に恨みを抱くような描き方をしない。

そもそもアメリカ人はほとんど登場しない。

素晴らしいと思う。

 

ただ素晴らしいけれども、ごくごく日本的な情緒の上にしか成り立たない誠意という気もする。 

つまり欧米人が日本の反戦映画を観たとして、

伝えたいことは伝わらないのではないだろうか。

 

アメリカ人を描かない。

これは暗に「この作品は恨みつらみいった低次元の話をしていない」ことを表現している。

日本兵にもアメリカ兵にも人情はあって、それが戦争という狂気に曲げられてしまった。

日本兵は酷いことをした。アメリカ兵も酷いことをした。酷い時代だった。

そのことを視聴者全員が理解していると仮定したうえで、存分に戦争のリアリティを突き詰めたい。そこで何の罪もない弱者を描く。

そうしてアメリカ人の存在しない日本の反戦映画が生まれたのだと思う。

 

他国はどうだろう。

 

もし先の大戦でアメリカに原爆が落とされたとする。もしも、の話。

そして現在、反戦映画を作ろうとしたとき、おそらく原爆を落とした人間をアメリカ人監督は十二分に描画するだろう。

 

それもまた「恨みつらみ」という次元の話ではない。

おそらく、自分たちは被害者であるが、加害者でもあると明確に意思表示をする。

アメリカ兵が敵兵を殺すシーンをどこかに差し込もうとするだろう。

それと同じ濃度で原爆被害も描こうとする。


日本の反戦映画であえて描かなかったものを、アメリカは逆に精緻に描画することで

戦争の虚しさを表現しようとする。

これこそアメリカらしい誠意であり、いわゆる「フェア」ということだと思う。

 

どちらが正しいか、なんてことは言えるはずはない。文化の違いだと思う。

ただ、日本の反戦映画はどんなに悲惨であったとしても

欧米人の目に涙をあふれさせるという機会はごくごく、稀にしかない。 

おそらく、こういうだろう。

「はじめにパールハーバーに奇襲をかけたのはそっちじゃないか。卑怯者。被害者ヅラしやがって」

 

もう少しだけ欧米の人にも分かりやすく描いてみてほしいとも感じる。

原爆に焦点を当てるならば、最初の三分だけパールハーバーを描いてみる。

それだけで作品が伝えたかったことが伝わるのではないだろうか。