ワン・ビン「無言歌」鑑賞。
http://www.youtube.com/watch?v=0gqFwzgOjh4

文革の犠牲者たちが、過酷な労働と食糧不足のなか、ただただ死んでいくだけの映画。あまりのぎりぎりさ(そしてそれを容赦なく積み上げていく演出)故に、悲劇ではなく一種のサスペンスを見ているような感覚に陥る。死が当たり前過ぎて、死んでいく人たちのために泣くこと(悲劇として受容すること)も出来ない。ただ、誰も死にたいとは思っていない-生きるために必死で食べ物を探し、時には同胞の死体を食べる-以上、死は事件であり、次に誰が死ぬのだろうという陰鬱な緊張感が残る。それがサスペンスとなる。

だから、この映画は「面白い」。まさに張り詰めた緊張感に釘付けになる。それは非人間的でもある。そこに時折人間的な行為が出現すると(例えば、死んだ元医師の妻が上海から訪ねてきて、愛する夫の亡がらを求めて荒野を彷徨う様や、泣き叫ぶ様)、感覚が麻痺したまま、なおその出現に心動かされる。

「人間的なもの」の出現も、人がただただ死んでいく荒野に雨を降らすわけではない。荒野は荒野で命は変わらず軽いが、軽いからこそ、外部から、あるいは追いつめられた死の直前に内部から、「人間的なもの」が現れると、それは嘘のような鳴動を、荒野に発生させる。非人間的な荒野に無謀に出現するが故に、無視出来ない。たとえば、唐突に空にUFOが現れるように、「人間的なもの」が現れるということ。それは死にゆく人々から遠すぎて、人間的な意味ではもはや胸を打たないが、しかしそれを見てしまった以上、信じざるを得ないようななにかではあるし、向かわざるを得ない何かでもある。

その出現もまた、「無言歌」をサスペンス的緊張感で満たしていく。とっても面白い映画である、としか言えないのかもしれない。そこに映画の暴力がある気もする。しかし、サスペンスとしての緊張感では説明がつかないものも残る。それを希望とは呼べなくても、荒野で「人間的なもの」を見てしまったこと自体の取り返しのつかなさはあると思う。

だから、ただただ面白さに打震えつつ、恐れるというのが、この映画との向き合い方になってしまう。