高校時代に、ある先生が言った、
「懸命に普通なふりをしていても、傷付いている人の顔はわかる」
という言葉が、とても有難かったことをふと思い出した。
その言葉を聞いた頃は、かなりいっぱいいっぱいで、毎日ズタボロになりながら学校に行ってた。
でも弱音を吐いたり、何が辛いってことも言う強さがなくて、なにより、言わない正義にすがっていたから、誰かが見つけてくれるなんて、本当に嬉しかった。
あの先生は、あのとき確かに私を見ていたと思う。
そのあとに何て言ったか忘れちゃったんだけど、きっとどんな慰めの言葉より、その、見つけてくれたことが大きかった。
別に特別私に優しくはなかったし、助けよう何て気持ちもなかったと思う。
ただ、わかる人にはわかるよ。
だから、頑張れ。
ってことだと思った。
その人は多分人を助けることの難しさも、手を差し出す責任の重さも知っていて、むやみにそうしなかった。
助けてほしいなら、助けてほしいという勇気を差し出さなくてはいけない。
相手の優しさにつけこんで、勝手にその責任を負わせてはいけない。
助けられるものの最低限の礼儀。
当たり前の優しさ何て存在しない。
その手と引き換えの勇気を、忘れちゃいけない。
それからね、手を差し出すだけが救いじゃないということを、互いに理解していたい。
だって、私はあのとき嬉しかった。
そんな風に、見つけてもらえるだけで救いになることもある。
無力だなんて嘆かないで。
そのときの自分の立ち位置や持ち場で、うまく動けないこともある。
自分の荷物が重かったら、それ以上の力持ちになるか、いったん減らすしかない。
そしてそれは容易くないことだから、何もできないなんて言わないで。
誰しも背負う限界があることを、互いに理解していたい。
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