正式に書くブログとしては、初投稿となります。
こちらでもよろしくお願いします♪
長文を書くのが苦手なので基本はツイッターですが、今日はツイッターでは書ききれない想いが、とめどなくあふれてきたので、ブログにしたためることにします。
私は今日、自分がなぜ研究者になろうとしたのか、ということを振り返るきっかけを頂いた。
ある元市町村保健師の、住民を心から思う、住民の存在といのちを全身全霊で大切に思う、あふれんばかりの愛情をしたためた文章に触れたからである。
不覚にも最終電車の中で、涙があふれてきた。帽子をかぶっていたのが、不幸中の幸いだった(笑)
愛情の深さと、自分の不甲斐なさを突きつけられ、久しぶりに魂の奥底を激しく揺さぶられた。
冷たい雨が、心の更に深い世界へと導いてくれた。
以下は、私が研究者になろうと思った経緯を徒然と書いています。かなりの長文となってしまいました。興味のある方は、お時間のある時にお読みください(笑)
私は奈良県のちいさな町で保健師をしていた。
保健師とは、住民の健康を保持増進するために、個人・集団・まちレベルで予防活動を行う専門の看護職だ。
勤めていたのは、ほんとに小さくて山の中だったので、住民とも密着していて、貴重な経験と、楽しく有意義な時間を過ごさせて頂いた。心から感謝している。
でも、そんな小さな町でも、様々な事件や満たされぬ想いがあった。
親から万引きを強要される兄弟の子どもたちのけなげさ、それを止められずむしろ加担せざるを得なかった母親の辛さ。
気分障害が少し良くなってきたので一時帰宅し、病院に戻る途中に川に飛び込んで自らの生涯を閉じた成人男性。
半身まひになって、「15年間、家でただただ生きているだけ。自分で死ぬことさえ出来ない」とぼそっと嘆く男性高齢者。
介護生活が終わり、心に穴があいて、そのまま認知症になってしまった女性高齢者。
教育者というプレッシャーから、子育てを心から楽しむことが出来ず、苦しい思いを涙ながらに話す母親。
血圧が200ある事を自覚しながら、指摘されるのが怖いと病院に行かず、そのまま脳梗塞で倒れた働き盛りの男性。
地位も金も名誉もあるけど、心を許せる人がいなくて、最後に孤独死した方。(ちなみに最後にお話をしたのは、何を隠そうこの私だったそうです。。。)
上げればきりがない。。。
でも、とてもいいこともたくさんあった。
健診で早期のがんが見つかって、一命を取り留めた女性。
予防接種で苦情を言って来られたけど、実はものすごく辛い思いを抱えていて、その話を聴くことで気持ちが落ち着き、その後はむしろ親しくなった母親。
ボランティア団体で活動されていた人の中で、活動内容が行政の手先みたいと感じていた人がいたけど、喧々諤々みんな意見を出し合い(ぶつけ合い)、最終的にはそれぞれが自分達らしく楽しく活動できるようになった女性達。
小学校とのコラボで、児童対象に骨密度を上げる健康教育を行ったところ、「お家で牛乳とかお豆腐とかを食べる回数が増えたよ」って報告してくれた児童。
発達障害のある子どもを受け入れられず、苦しい思いをしていたけど、最終的に受け入れて、心からその子を愛おしく育てる前向きな母親。
運動の健康教室の参加者が、運動を続けたいと様々な勉強をして、自らインストラクターとなってフォロー教室を立ち上げた、行動力のある女性。
保健師になってよかったと思える瞬間に、どれ程たくさん立ち会えただろう。
そして、なにより嬉しかったのは、それぞれが抱える問題に対して、住民が自ら行動してくれていたということ。小さくでも細々でも、立ち上がり活動していた。
そんな住民がいる町で保健師として関われたことを、私はとても誇りに思っている。
でもそうやって立ち上げても、いずれ息絶えて、「頑張っているけど、自分達だけでは限界だから、もうやめます」という状態になった団体がいくつもあったのも、確かである。
頑張っているのに、予算的に続けられない。
頑張っているのに、問題は解決しきれない。
頑張ってきたけど、後をやってくれる人がいない。
・・・
私はこの勇気ある小さな活動家を、保健師として一住民として、支えることが出来なかった。
私自身に力はない。知識もないし、アイデアも生まれない。
その頃は、どうすればいいのか、全く分からなかった。
みんな頑張っているのに。。。
目の前にある問題の解決のために、取り組もうとした尊い志を支えられない。
とってももったいないし、続けてほしい。。。
無力感を感じた。
もっと勉強したい。視野を広げたい。どうすればいいかを考えたい。
そう思って、現場を退職し研究者の道を歩み始めた。
なぜ研究者だったのか?
私が現場で自分の思う保健活動をする際に、不安を抱えた私の背中をいつも力強く押してくれたのが、恩師である某大学の教授だった。そんな経験から、
「実践者ではなく、研究者という立場を利用することで、まちの小さな活動家の活動意義を証明したり、継続出来る環境を整えるため、しかるべき部署に交渉することができるのではないだろうか」
と考えるようになった。
つまり、研究の世界に進んだ理由は、地域の課題を解決する際に、「研究者」という立場を利用したかったからである。
なんとも不純な動機(笑)
そんなこんなで、研究者になるべく山梨・東京に引っ越しした。
フリーな立場で、かつ関東圏に軸足を置いたことで、新たな経験や出会いがあり、様々な方とお話しし、さらに考えは深まった。
小さな志を支えるため、更に必要と思える事柄。「現場を理解できる研究者の存在」以外に、2つにまで整理することが出来た。
1つ目は、「異分野も視野に入れた、活動家同士のつながり」である。
「行政だけでなく、活動家同士が情報交換し、支援し合えば、もしかすると今直面している各団体の課題を解決できたり、仲間が出来たり、解決の糸口が見つかるかもしれない。」
「今問題だと思っている課題は、意外に全く異なる分野でも同様の課題が存在していて、その解決策はおおむね確立されている可能性がある」という仮説からである。
2つ目は、「ソーシャルビジネス」の可能性
「住民の活動をビジネス化することが出来れば、活動の自由度はそのままに、継続性を担保出来るはず!」という根拠のない確信からである。
ちなみに「現場を理解できる研究者の存在」は、
「実践者ではなく、研究者という立場を利用することで、活動家の活動意義を証明したり、継続出来る環境を整えるため、しかるべき部署に交渉することができるのではないだろうか」(前述)
「住民の活動の有効性を見える化することと、その有効性を研究成果として発表して信憑性を高めることで、一歩を踏み出せない又はどうすればいいか分からないという活動家のたまごの背中を押すことが出来て、しかも、自信を持って活動してくれるだろう。更に、活動を継続するモチベーションの一つになるだろう」という、経験をベースにした二つの仮説が元になっている。
私は研究者として、これらの仮説を一つ一つ丁寧に検証することが、私のライフワークに、おそらくなるのだろう。
これが、私の研究への道に進んだ理由である。
しかし、研究者とは、そう簡単になれるものではない。
本物の研究者はそうはいなくて、そうは簡単になれないのだ。
それを思い知らされた山梨時代だった。
そして、その思いは今でも引きずっている。
「研究者とはなんぞや?」
私なりに、この定義を整理して行く必要があるのだろう。。。
良い意味で揺らぶられ過ぎて、眠れない夜となりそうです。