私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ… -33ページ目

私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しく日本テレビ局へハガキ応募
タイガーマスクのデビュー戦の四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの熱烈な元愛読者の彼
(gooブログ閉鎖によりアメーバブログへ移転・引っ越しました。)

ブシオ製ドクトル・ワグナー・ジュニア 本人使用済みです。
 
2002年、新日本プロレス来日時に使用したマスクです。

着用写真、直筆サイン入り。
 
本人が使用した明確な日時、場所等は不明です。
 

ドクトル・ワグナー・ジュニア

ドクトル・ワグナー・ジュニアDr. Wagner Jr.)のリングネームで知られるホアン・ゴンザレスJuan Manuel Gonzalez Barron1965年8月12日 - )は、メキシコ覆面レスラーコアウイラ州トレオン出身。

実父のドクトル・ワグナーは、「殺人医師」の異名を持つルチャリブレの伝説的な覆面レスラー(ルード)で、実弟のシルバー・キングも著名なプロレスラー、元妻もロッシー・モレノで女子プロレスラー。また実子もエル・イホ・デル・ドクトル・ワグナーのリングネームで2010年1月29日にデビューしている。

経歴

1986年4月12日、20歳の時にメキシコのコアウイラ州トレオンのLLIでデビュー。1988年5月、新日本プロレスに参戦するため初来日(なお、1987年全日本プロレスに同名の選手が来日しているが、これはメキシコで既に素顔でファイトしていた弟のシルバー・キングがマスクを被って来日したものである)。

1993年の3月、4月と連続して初代CMLL世界タッグ王座・CMLL世界ライトヘビー級王座を獲得した。

1997年に再び新日本プロレスに参戦し、タッグマッチがメインだったが初参戦の頃よりもスケールの大きな試合をするようになり、選手達や日本のファン、マスコミの評価は一気に高まった。

1998年ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで準優勝、1999年1月4日にはIWGPジュニアタッグ王座を獲得するなど活躍。2001年1月には弟のシルバー・キングと共に参戦した。2002年にも参戦、2003年、2004年には全日本プロレスに弟のシルバー・キングと共に参戦した。

2017年8月26日、メキシコシティで行われたAAA『トリプレマニア25』における敗者覆面剥ぎマッチでサイコ・クラウンに敗北し、出身地、本名が明かされ、以降素顔でリングに立つ。同年9月4日以降はリングネームをレイ・ワグナーと改めている。

特徴

幼少の頃から、弟のシルバー・キングと共に父のドクトル・ワグナーによってルチャの英才教育を施される。このためプロレスに限らず、スポーツ全般を得意としている。

外見上は父のドクトル・ワグナーの白のマスクを継承して「殺人医師2世」を名乗っているが、日本ではルードというより実力派の覆面レスラーとして知られる。近年は多色の黒や赤のマスクやコスチュームを使用する場合も多い。

軽快な身のこなしで空中殺法を得意とする弟に対して、パワーボムブレーンバスターなどの投げ技を用いたパワー殺法を得意とする。あまりにパワフルなため、プロフィールの体重98kgというのは嘘で、ジュニアヘビー級のリミットである100kgを超えているのではないかという噂が出たことがある。2001年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアでは、対戦したAKIRAが試合前のマイクパフォーマンスで「こいつの体はどう見ても100kg以上あるだろう。これに乗ってちゃんと測ってみろ」と言い、リング上に体重計を持ち込んだ。規定体重超過で失格にさせようと画策したものだったのだが、ワグナーは手渡された体重計でAKIRAを殴りつけ破壊、結局計量は行われなかった。

驚異的なスタミナを誇り、受け身の技術も高く多様なファイトスタイルに対応できる。難度の高い技の応酬も見事にこなすことから、ジュニアヘビー級の選手層の厚い新日本プロレスにおいても非常に高い評価を受けている。

Wikipediaより

 

 
 
 
 

レプリカ

山崎製。

スパルタンモデル。
OJISANプリントタグ付。
山崎一彦氏刺繍入り。
 

ジョージ高野

ジョージ高野(ジョージたかの / George Takano1958年6月23日 - )は、日本プロレスラー、元大相撲力士。本名:高野 讓治(たかの じょうじ)。福岡県北九州市出身。

ザ・コブラThe Cobra)のリングネーム覆面レスラーとしても活躍した。

1982年1月にメキシコへ遠征。2年連続で最優秀外国人選手に選定されるなど活躍した。1983年にはカナダカルガリースタンピード・レスリングに転戦、自身のヒール志向もあって、将軍KYワカマツマネージャーに迎えて覆面レスラーザ・コブラとして活動。ダイナマイト・キッドブレット・ハートデイビーボーイ・スミスらと抗争を展開し、同じく海外武者修行中だったサニー・ツー・リバーズこと平田淳二や弟の高野俊二とも対戦した。9月2日にはブルース・ハートを破り、英連邦ヘビー級王座を獲得、タイトル初戴冠を果たしている。

1983年夏の初代タイガーマスクの突然の引退によって、ジュニア戦線の後継者として凱旋帰国を促されるも一度は辞退。その後、師匠アントニオ猪木の説得により帰国を決意、11月3日の日本デビュー戦でNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。その後もザ・コブラとして、ジュニア戦線のトップとして活躍した。しかし、常にタイガーマスクと比較される宿命を負ったことに加え、猪木と同等の体格である高野がジュニアヘビー級戦士として活動するのは無理があり、1986年6月にコブラは姿を消した後、素顔のジョージ高野に戻ってヘビー級戦士として「凱旋」。凱旋試合では後楽園ホールの2階席からスポットライトを浴びて登場し、テレビ放映もされた。しかし、その後はタイトル戦線に絡むことがなく、活躍の機会には恵まれなかった。

Wikipediaより