私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ… -2ページ目

私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しくテレビ局へ応募
タイガーマスクの四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの元愛読者の彼

メーカー名 FIGURE TOY製 ウルトラデラックス 1000本限定 証明書付き

仕様

• ベルト部分:本皮仕様
• カバー: クロスケース付き
• サイズ: 約 135cm  プレートの厚さ:4 mm
• 重量:約4.2
kg

刻印有。

収納袋有。

ランディ・オートンネームプレート付。

世界ヘビー級王座 (WWE)

世界ヘビー級王座(せかいヘビーきゅうおうざ、World Heavyweight Championship)は、アメリカプロレス団体WWEにおける王座の一つである。WWEにおいて2013年までWWE王座と並ぶ最高位のタイトルであった。

概要

WWE王座と並び、団体の最高位の王座であり、王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。

王座に用いられているチャンピオンベルトは旧NWA、WCW時代にリック・フレアーが十数回に渡り戴冠し活躍したことから、フレアー・モデルという通称を持つ。フルモデルチェンジを繰り返しているWWE王座とは対照的に、エンブレムをWWEのものに変更するなどの処理こそ施されたものの制定から現在まで同一のベルトを使用し続けている。

なお、アメリカでは単に「世界ヘビー級王者 "World Heavyweight Champion"」と表記する場合は、かつて世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座を指す。そういった点を考慮しても、又は最近WWEから発売された世界ヘビー級王座の歴史を辿るDVDでの扱い方を見ても、今日のWWEにおいてこのタイトルは、公式な歴史を見れば非常に浅いものの、かつて栄華を誇ったNWA世界王座、その後それを受け継いだWCW世界王座の流れを受け継いだタイトルであると言え、同等価値のWWE王座がWWEという団体の歴史を象徴する王座であるならば、これはアメリカンプロレスそのものの歴史を象徴するタイトルであるといえる。

また同王者を制定する際、混同を避けるため「WWE世界ヘビー級王座」は「WWE王座」へと改称されている。

Wikipediaより

 

 

海外製。

全長約1,370mm。

重量約2.2kg。

ストラップ本革、裏張りめくれ有。

収納ケース無。

刻印無。

 

WWFインターナショナル・ヘビー級王座

WWFインターナショナル・ヘビー級王座WWF International Heavyweight Championship)は、現在のWWEがかつてWWFだった時代に認定した王座である。

UWF版

歴史

1983年新日本プロレス専務取締役兼営業本部長及び元WWF会長を務めていた新間寿は、お家騒動の責任を取らされる形で新日本プロレスを追放されたものの依然としてWWF会長の座にあった。そこから、新間は引退したタイガーマスク(初代)を埋もれさせたくないと、タイガーをWWFマディソン・スクエア・ガーデン大会に参戦させて、その試合の模様を「ワールドプロレスリング」のなかに設けたWWFのコーナーで放映するといった私案をマスコミに語っていたものの、これは私案のままで終わった。

1984年3月25日、WWFマディソン・スクエア・ガーデン大会で突如としてWWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦が行われた。これに出場したのはカナダ出身のピエール・ラファエル、新日本プロレスに籍を置きながら謎の欠場を続けていた前田日明だった。試合開始前にWWF関係者から直々に激励も受けたという前田はコブラツイストを決めて短時間で勝利して王者になった。前田が獲得したWWFインターナショナル・ヘビー級王座のチャンピオンベルトには、王座を認定している「WWF」の名を差し置いてまで「UWF」の文字が大きく書かれており、前田は東京スポーツの記者に、その意味を問われると「そうです、僕はUWFに行きます」、「今の新日本は正規軍と革命軍の抗争に明け暮れ、本当のプロレスができない」とコメントしてUWFへの移籍を認めた。前田が保持していたWWFインターナショナル・ヘビー級王座は、藤波辰巳が保持していたWWFインターナショナル・ヘビー級王とは別物でありながら王座名が同じという物議を醸すものであった。言わば同じ王座名のチャンピオンベルトが2本同時に存在する形となった。3月、新間はUWFを設立して同じオフィス内に「WWF日本支部」を設置。

前田の王座獲得は東京スポーツなどで「藤波の同名王座は無効?」といった見出しと共に報じられたが、当然ながら藤波を始めとする新日本プロレスは黙っていなかった。この件を報道で知った藤波は「ひとつだけ言えるのはファンを甘く見るなということ。新団体ができてハイ新しいベルトができました、ではファンが納得すると思う?」と不快感を示したうえで前田に「IWGPリーグ戦」への出場を呼びかけた。また、新日本プロレス代表取締役副社長の坂口征二は「冗談じゃない。この王座は新日本プロレスに管理運営権があるんだ」と主張。さらに頭角を現した藤原喜明はUWFへ殴りこんだうえでの前田との一騎討ちを要求。4月17日、UWF蔵前国技館大会で前田と藤原によるシングルマッチが行われて両者フェンスアウトの裁定が下ったが、観客から怒号が渦巻いて異例の10分延長戦が行われて両者カウントアウト(ダブルノックダウン)の裁定が下った。

5月21日、WWFマディソン・スクエア・ガーデン大会で王者の前田がレネ・グレイを下して初防衛に成功。7月23日、新間がUWFを退社したことでWWFとの関係も無くなり、王座は空位となって事実上封印状態となる。7月、王座名をUWFヘビー級王座に変更。なお、前田が設立したリングス公式サイトにある前田のプロフィールに、「元はWWFインターナショナル・ヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される」といった注釈付きで「UWFヘビー級王座」と紹介されている。

Wikipediaより

 
 

海外製。

全長約1,470mm。

重量約5.0kg。

ストラップ本皮。

収納袋無。

刻印無。

 

IWGP世界ヘビー級王座

IWGP世界ヘビー級王座(IWGPせかいヘビーきゅうおうざ)は、新日本プロレスが管理・認定している王座。IWGPヘビー級王座IWGPインターコンチネンタル王座の統一王座。

2020年1月5日レッスルキングダム14 Day2にてIWGPヘビー級王者のオカダ・カズチカとIWGPインターコンチネンタル王者の内藤哲也による、史上初のダブル選手権試合が行われ、これに勝利した内藤が二冠王者となった。

2021年1月4日レッスルキングダム15 Day1にて二冠王者となった飯伏幸太[3]、翌1月5日のレッスルキングダム15 Day2で初防衛に成功後、プロレスを広めるために王座の統一を提唱、1月12日の会見でも「二冠になってから王座が一度も分かれていない」ことを理由に王座の統一を再度提案した。

2月28日、「王座統一の阻止」、「二冠解体」を目的としてIWGPインターコンチネンタル王座にのみ挑戦した内藤を退け、王座統一に向けて大きく前進した。

3月1日、飯伏の意向を尊重した新日本プロレス会長の菅林直樹により、IWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座を統一し、両王座の歴史を継承したIWGP世界ヘビー級王座を新たに創設することが発表された。会見では「飯伏を初代IWGP世界ヘビー級王者に認定する」「初防衛戦を4月4日の両国国技館大会で、NEW JAPAN CUPの優勝者と行う」「3月4日の日本武道館大会で、IWGPヘビー級王座及びIWGPインターコンチネンタル王座の二冠王者である飯伏とIWGPジュニアヘビー級の二冠王者(IWGPジュニアヘビー級王座及びIWGPジュニアタッグ王座)であるエル・デスペラードによるスペシャルシングルマッチを行う」ことも併せて発表されたが、飯伏はデスペラードとの試合をIWGPヘビー級王座及びIWGPインターコンチネンタル王座のダブル選手権試合にすることを提案した。同日、飯伏とデスペラードの試合をダブル選手権試合に変更し、「勝者を初代IWGP世界ヘビー級王者に認定する」と改められた。

3月4日、飯伏が両王座の防衛に成功し、初代IWGP世界ヘビー級王者に認定された。

3月30日、試合前にベルト贈呈式が行われ、IWGP世界ヘビー級王座のベルトが披露された。

Wikipediaより

 

 

 

 

 

ディヴ・ミリガン製。

全長約1,300mm。

重量約5.6kg。

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無。

 

WWE・世界王座

WWE王座(The WWE Championship) は、アメリカ合衆国プロレス団体WWEにおける王座の一つである。王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。

歴史

王座創設はWWEの前身であるWWWF設立前の1963年1月25日とされる。初代王者はリオデジャネイロでのトーナメントを勝ち抜いたバディ・ロジャースで、決勝の相手はアントニオ・ロッカとされている。もっとも、このトーナメントは実際には行われていない(なお、この前日の24日にはトロントでロジャーズ対ルー・テーズNWA世界ヘビー級王座戦が行われ、ロジャースが王座転落)。その数か月後、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノがロジャースを圧倒的な試合展開で下し、以後約8年間の長きに渡り王座を保持した。

1971年よりプエルトリカンペドロ・モラレスが新王者となり、イタリア移民のサンマルチノに続くニューヨークのマイノリティのヒーローとして活躍。以後、ショーマン派のスーパースター・ビリー・グラハムやアスリート系のボブ・バックランドが戴冠した。1979年には日本でアントニオ猪木が王座を獲得したが、日本での王座移動の経緯はアメリカのファンに説明されなかった[1]。そのため、猪木の戴冠についてはWWEが認めている時期と認めていない時期があり、公式的には猪木は歴代王者にカウントされていない。しかし2010年の猪木のWWE殿堂入りを機に再び認められる可能性もある。

ビンス・マクマホン・シニアが死去し、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻がスタートした1984年からは、ハルク・ホーガンを主軸とした王座争いに移行。ランディ・サベージアルティメット・ウォリアーなども王者となり、WWFのファミリー・エンターテインメント路線を牽引した。ホーガンがWCWに移籍した1993年以降は、ニュー・ジェネレーション路線としてブレット・ハートショーン・マイケルズが王座戦線の主役となった。

1997年、WWFは視聴率争いで一歩リードされていたWCWに対抗するために、これまでのプロレスの常識を覆すソープオペラ調のストーリー、アティテュード路線に切り替える。以降、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンザ・ロックトリプルHらを中心とした王座争いがドラマ仕立てで展開され、WWFの会長であるビンス・マクマホンまでもが王者になるということもあった。

2001年12月9日に開催されたヴェンジェンスではWWF王座とWCW王座を統一したWWF統一王座が新設され、クリス・ジェリコ、ザ・ロック、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、カート・アングルの4名によるトーナメントの結果、クリス・ジェリコが初代統一王座を戴冠した。今なおジェリコは「一夜でロックとオースチンを倒した唯一の男」と喧伝されている。

2002年8月25日に開催されたサマースラムでの統一王座戦ザ・ロックvsブロック・レスナーでレスナーがロックに勝利し王座を奪取。当時統一王者はRAW、SmackDown!両方の番組に出ることが可能であったが、レスナーはSmackDown!専属となり名称もWWE王座と改称される。以降はSmackDown!が王座を管轄し、RAWには世界ヘビー級王座が新設され、WWE王座と同等の扱いの王座となった。

2005年4月3日に開催されたWresleMania 21ジョン・シナJBLから王座を奪取し、6月のドラフトで王座を持ったままRAWに移籍。

2008年開催のドラフトでは、トリプルHが王座を持ったままSmackDown!へと移籍。 翌2009年開催のドラフトでも、トリプルHが王座を保持したままRAWへと移籍。

2013年TLC戦で、ランディ・オートンが、ジョン・シナとの王座統一戦で制し、名称もWWE・世界ヘビー級王座と改称される。これにより、11年間同じ最高位の王座としてあった世界ヘビー級王座は廃止されることになった。

また、名称はWWWF世界ヘビー級王座、WWWFヘビー級王座、WWFヘビー級王座、WWF世界ヘビー級王座、WWF王座、WWF統一王座、WWE統一王座、WWE世界ヘビー級王座、WWE世界王座などを辿って現在の名称となった。

歴代最多戴冠はジョン・シナの13回(2017年1月29日戴冠時)。

Wikipediaより

 

 

 

本人着用

旧プエブラ(故アレハンドロ・ロドリゲス)製。

金モハダ(シルク)×メタリック特殊本革フチ。

チャック式。

着用写真付。

当時の年代物。

1981年頃、作製。

 

ミル・マスカラスMil Máscaras、本名:Aaron Rodríguez Arellano1942年7月15日 - )は、メキシコプロレスラーサン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。

ルチャリブレを代表するヘビー級ルチャドールの1人、そして世界で最も著名な覆面レスラーの1人として、華麗な空中殺法でアメリカ合衆国や日本でも人気を博した。日本では「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持ち、ジグソーの『スカイ・ハイ』が入場テーマ曲に用いられた。

来歴

学生時代からレスリングボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1964年4月の仮デビュー後、大キャンペーンを経て、1965年7月16日にメキシコの大会場アレナ・メヒコにてデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。

1968年から1971年にかけてはアメリカNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチンザ・シークジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。同地区ではアーニー・ラッドブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラチェーン・デスマッチにまで発展している。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた。

1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。同地区のトップ・ヒールだったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・カール・コックスグレート・マレンコマイケル・シクルナキラー・コワルスキートール・タナカらと対戦し、タッグではワフー・マクダニエルとのコンビで活躍した。

初来日は1971年2月19日に日本プロレスで行われたダイナミック・ビッグ・シリーズの開幕戦。このシリーズは3月10日まで行われ、全13戦の短いシリーズであったが、日本にミル・マスカラスの名前を大きく刻み付けた。スパイロス・アリオンと組んでジャイアント馬場&アントニオ猪木インターナショナル・タッグ王座に挑戦し、猪木とのシングルマッチも行われた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田ザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

また、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおける「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という理不尽な縛りを、1972年12月18日に素顔のザ・スポイラーとの対戦にて解禁し、初めて覆面を被ったままMSGに登場した人物である。WWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦。同年1月23日のMSG定期戦で行われたタイトルマッチでは、ボブ・バックランドがマスカラスのセコンドを務めている。3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラミスター・フジプロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。この試合は、当時WWFと提携していた新日本プロレスの放送局であるテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』においても中継された。

1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、アメリカでの主戦場だったカリフォルニア中西部地区のビッグイベントを中心に出場。同年6月15日にはセントルイスキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル第10回大会)にも出場した。

アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツ(当時)のミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄ローラン・ボックと対戦した(吉田には勝利し、ボックには敗退。トーナメントの戦績は7勝3敗1分の第4位)。

1986年6月の全日本プロレス参戦を最後に日本マットへの登場は途絶えていたが、1990年代W★INGFMWWARみちのくプロレスに来日(1993年9月12日にはWARと新日本プロレスの合同興行において、ウルティモ・ドラゴンをパートナーに獣神サンダー・ライガー&エル・サムライと対戦)。2000年2月にはバトラーツ2001年1月と2002年7月には全日本プロレスへ久々に参戦し、2006年9月には大阪プロレスに登場した。その後も2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。2013年4月には、女子プロレス団体のスターダムが開催した『STARDOM MASK FIESTA』に出場した。

俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 "Mil Mascaras Versus The Aztec Mummy" (『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』)が製作・公開された。

2011年10月16日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。

2016年11月28日、東京愚連隊後楽園ホール大会に来日。NOSAWA論外を挑戦者に、1975年以来保持しているIWA世界ヘビー級王座の防衛に成功した。

「千の顔を持つ男」

試合毎にマスクを変えることから "千の顔を持つ男" と呼ばれた。リングネームはスペイン語で「千の仮面(マスク)」という意味である。日本では入場時に、試合用マスクの上から別のマスク(オーバーマスク)を更に被り、試合前にそのオーバーマスクを客席に投げてファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。また、全日本プロレス中継の視聴者プレゼント用にマスクを提供することもあった。別のマスクを被る時は顔を隠しながらアゴのあたりからスルッと(2枚のマスクで頭を包むようにして)被り直す特技もあり、絶対に素顔を晒さなかった。

親族

実弟に同じくプロレスラーのドス・カラスエル・シコデリコ(エル・サイコデリコ)がおり、ドス・カラスとは兄弟での来日も多い。

甥のドス・カラス・ジュニアシコデリコ・ジュニア(サイコデリコ・ジュニア)は共にプロレスラーとなっており、ドス・カラス・ジュニアは総合格闘技を経て、アルベルト・デル・リオのリングネームでWWEにて活躍した。

Wikipediaより

 

 

 

 

本人着用

YN(中村之洋)製。

絶版大阪ラメ(旧紫ラメ)。

革タグ、直筆サイン、着用写真付。

YN製獣神サンダー・ライガーに使用している特別仕様のシルバーエナメル本革使用。

顎紐も本人使用の結び方に変更済。

オーダー完成時及び令和元年(2003年)11月23日 「佐山サトル館 初代タイガーマスクサイン会 」も着用済。

 

スーパー・タイガー(SUPER TIGER)

タイガーマスクは、日本覆面レスラーである。

元はアニメタイガーマスク二世」のタイアップ企画として誕生したがアニメ終了後も高い人気を誇りアニメとは離れたプロレスラーとして存在を確立して現在まで引き継がれている。

イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山が新日本の意向を受けて極秘帰国してタイガーマスクに扮して1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博して一大プロレスブームを巻き起こした。タイガーマスクの権利者だった梶原一騎は漫画「プロレススーパースター列伝」の原作者として作品に現実のタイガーマスクを登場させて一部にフィクションを織り交ぜながらタイガーマスクの人気に拍車をかけた。

しかし人気絶頂期だった1983年8月10日、佐山は突如として新日本へ契約の解除を一方的に申し入れて引退(正確には引退はせず退団)を表明。

UWF参戦時はマスクとコスチュームのデザインを一新てザ・タイガースーパータイガーのリングネームで活動していた。

その後、タイガーキングザ・マスク・オブ・タイガーなどのリングネームを使用している。

2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名で復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

Wikipediaより

 

 

本人使用済み。

ゴルフのオーダーメイドシューズ。

おしゃれな革靴のデザイン。

メーカーはMIZUNO製。

サイズ35cm。

90年代中頃の新春ジャイアントシリーズ後楽園ホール大会で行われたカラーボール抽選会で当選したもの。

 

ジャイアント馬場

ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年昭和13年〉1月23日 - 1999年平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラータレント、元プロ野球選手。本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平ばば しょうへい

概要

日本のプロレス界の史上最大の長身と巨体を持ち、力道山アントニオ猪木と並んで日本のプロレスそのものを代表する存在である。コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博した。現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。全日本プロ・レスリング代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。三条市名誉市民。

リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアババ・ザ・ジャイアントBaba the Giant)と命名したことに由来する。新聞のラテ欄では文字数の制約から「G馬場」と表記されることがある。身長209cm、体重135kg。血液型O型。

生涯

生い立ち

1938年1月23日日曜日)、新潟県三条市に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。四日町国民学校(卒業時には三条市立四日町小学校)に入学後、野球を始める。入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。

1953年、三条実業高校機械科(三条実業高校は1963年に商業科が三条商業高校に、機械科が三条工業高校となった後、現在は新潟県央工業高校)入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、特注のスパイクを与えられ、念願の硬式野球部に入部。練習試合で18奪三振を記録するなどエースとしての活躍はめざましく、1954年、高校2年のときには新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選であえなく敗退し甲子園出場は叶わなかった。

この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでプロ野球球団・トンボユニオンズの入団テストを受ける話が進んでいたが、読売ジャイアンツのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、10月13日巨人に投手として入団する。背番号は59。同期入団に巨人のV9時代を支えた主力選手となる森祇晶国松彰などがいた。なお、身長200cmに達する日本人プロ野球選手は2021年秋広優人阿部剣友が巨人軍入りするまでは馬場が唯一であった。

プロレスへの転身

スポーツを続けたいという一心で、野球選手の継続を断念した後も、自宅アパートの近くにあったボクシングジム・不二拳闘ジムでトレーニングを行っていた。

1960年3月、巨人時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手の経歴を持つ竹下民夫からプロレス入りを勧められる。

翌4月11日、ブラジル遠征から帰国した力道山(同遠征中、力道山は猪木寛至(アントニオ猪木)をスカウトしている)に日本プロレスへの入門を直訴。力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。このとき、通常練習生には支給されない給料を、巨人時代と同額の月給5万円(当時の大卒初任給は1万6千円程度)と即決されたが、翌月から「試合をしていないのに多すぎる」と3万円に減額される。

修行時代に、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木と三人でヒンズースクワットを行ったときは、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説が残っている。

日本プロレス時代(新人時代 - 全盛)

1960年9月30日(金曜日)、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。なお、同日に猪木もデビュー戦を行っているが、猪木は大木金太郎に頭突きの連打をくらいフォール負けしている。デビュー直後は芳の里が苦手であり、同年は18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。

1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)など強豪外国人レスラーとの試合が組まれ、いずれも勝利することはできなかったものの、試合内容を評価した力道山により渡米しての武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、マンモス鈴木らとアメリカに渡る。短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババニューヨークではババ・ザ・ジャイアント

とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。馬場はアトキンスの元で多くを学ぶことになった。

1962年3月9日、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに初挑戦以来、主にロジャースの地元での対戦相手として重用される。同年8月31日にオハイオ州コロンバスカール・ゴッチビル・ミラーの起こしたロジャース襲撃事件当日、NWA王座に挑戦予定だったジョニー・バレンドと代役で対戦。

1963年2月にはロサンゼルスにて、WWA世界ヘビー級王者だったザ・デストロイヤーとタイトルマッチを行い、デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトルは移動しなかった。

この遠征時代に馬場は、飲み屋のジュークボックスに唯一入っていた日本の楽曲だった、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。

第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。馬場は、それまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキーパット・オコーナーなど当時の超一流外国人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍して、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。

同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国する。帰国の際にグレート東郷から「力道山死後の日プロは先行きが怪しい。高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿を見ていることから、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もある。

1964年には、アメリカでNWA(ルー・テーズ)、WWWFブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。

同年4月に凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得。力道山亡き後の日プロを豊登・馬場の二枚看板で支えることになった。

1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、エースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した(初代ルー・テーズ、二代目力道山、三代目馬場)。ベルトそのものは馬場の王者戴冠を機に新調され、力道山が所有していたベルトは、後の全日本プロレス旗揚げ時に馬場に寄贈されるまで力道山家により保管された。ブルーザー相手に、1-1の引き分けながら初防衛を果たし、名実ともに日プロのエースとなる。同年12月、豊登が放漫経営の責任を取り日プロの社長を辞任し、日本プロレスから去った。

1966年2月28日(月曜日)、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。また、同年11月5日には、吉村道明とのコンビでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破り、後に日本マット界を代表する看板タッグ王座となるインターナショナル・タッグ王座を獲得している。以後、馬場は当時の世界の超一流強豪レスラーを相手にインターヘビー級王座を守り抜き、力道山のインターヘビー級連続防衛記録も更新し、エースとして君臨し続ける。ワールドリーグ戦においても通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。馬場とともに日プロ黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中、インターヘビー級への挑戦を表明したが、時期尚早として却下された。

1966年にハワイで、豊登が猪木を「馬場がいる限り、日本プロレスのエースにはなれないぞ」と口説いて東京プロレスに引き抜く猪木略奪事件が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日プロに復帰。復帰の際には「猪木は豊登に騙された」からと寛大な措置が取られたことから、猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月31日(火曜日)にインターナショナル・タッグ王座を獲得した[7]。この際にBI砲という呼称が定着した。BI砲は当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な勝率を誇り、インタータッグ王者チームとして看板タッグとなった。その他、この時期に馬場が組んだタッグチームとしては、坂口征二と組んだ東京タワーズなどがある。

日本テレビ実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を「ジャイアントゥ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。

猪木のクーデターと放送問題

1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を起草し、馬場も含めて多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新(芳の里淳三遠藤幸吉吉村道明の退陣)を図ろうとしていた。しかし同年12月1日、巡業先の京都から名古屋へ向かう途中、余りにも急進的な流れに疑問を感じていた馬場が上田馬之助を捕まえて問いただした。猪木らの計画では経営陣の刷新後はさらに力士出身の選手、果ては馬場も追い出す計画もあることを知り、馬場がそのまま帰京して経営陣にその旨を伝えた。猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、同年12月13日に猪木は日プロを除名された。なお、馬場は猪木の計画に一旦は賛同した責任を取り選手会長を辞任(後任は大木金太郎で反猪木の急先鋒でもあった)しており、猪木追放を発表した会見後に開かれた選手会による祝杯に馬場、上田はともに参加していない。

全日本プロレス時代

1972年10月22日日曜日)に日本テレビ・三菱電機の後押しで「全日本プロ・レスリング株式会社」を旗揚げした。馬場は全日本旗揚げに際して、前述の通り日プロ時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラーと、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始。合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。なおこのシングル王座のベルトとして当初使われたのは、力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座のベルトであり、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場に寄贈されたものである(後に新調され、オリジナルは、ヒューストンのプロレス博物館に寄贈された)。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞ともいうべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。

創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコハーリー・レイスドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しいジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座を初めて獲得する。PWFヘビー級王座と二冠を賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた。1979年1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の「BJ師弟コンビ」は、長年にわたってインタータッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。

Wikipediaより

 

 

 

極真会館・大山倍達総裁本人使用。

本人が愛用していたアロハシャツ(MADE IN HAWAII)。

 

前田日明と松井章圭とのゴング格闘技での鼎談取材時(1993年8月7日)にも着用していたもの。

着用写真付 資料付(1994年7月15日発行 ゴング格闘技増刊「大山倍達追悼写真集」)

池袋の極真会館総本部道場や同建物の上層階の大山総裁が居住していた部屋に総裁がなくなった後も長年保管されていたもので、総裁御本人が当時愛用していたもの。

 

大山倍達総裁 紹介

国際空手道連盟極真会館創始者。>1923年6月4日生まれ。
幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。
1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し、下山した1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決。47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死。1952年に渡米して全米各地を回り、空手の演武とデモンストレーションを行い、空手をアピール。その間、プロレスラーなどと真剣勝負を繰り広げ7戦全勝。その後も度々世界各国を歴訪し、演武と指導を行い、空手を世界に広める。
1964年、国際空手道連盟 極真会館設立。1969年には『直接打撃制(フルコンタクト)』を提唱し、第1回全日本空手道選手権大会を開催。1975年には通称『カラテオリンピック』と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟の総裁として、その生涯を極真空手に捧げた。1994年4月26日、肺癌のため急逝。享年70歳。

国際空手道連盟極真会館ホームページより

 

 

 

 

 

UWA世界タッグ・チャンピオンベルト(アニマル・ウォリアー) 本人使用


・ドラゴマニア・アレナメヒコ大会(パートナーはパワー・ウォリアー)こちらは、ドラゴマニアで王座決定戦が行われた後に主催者のウルティモ校長から某有名プロレスショップオーナーが譲り受けたベルトになります。

08年5月11日、アレナ・メヒコでの闘龍門自主興行「ドラゴマニア3」でUWA世界タッグ王座決定戦に出場。

パワー・ウォリアーと組んでテリブレ、ダミアン666組と対戦。

1分50秒、ダブルインパクトでテリブルからフォールを取りUWA世界タッグ王座を獲得。

 

メーカー不明

全長約1,200mm。

重量約2.8kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

ユニバーサル・レスリング・アソシエーション

ユニバーサル・レスリング・アソシエーションUniversal Wrestling Association)は、メキシコプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称でありメキシコではルチャ・リブレ・インターナショナルLucha Libre Internaciónal)と呼ばれることが多い。略称はLLI

歴史

1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサフランシスコ・フローレスベンジャミン・モーラらが設立。ナウカルパンエル・トレオを拠点としていた。1月29日パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げ戦を開催。

日本では新日本プロレスユニバーサル・プロレスリング全日本女子プロレスジャパン女子プロレスアメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり、日本とアメリカの選手が参戦していた。

旗揚げ当初はEMLLから人気選手のドクトル・ワグナーアニバルらを大量に引き抜いて一時は大人気を誇っていた。しかし、EMLLから引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより、世代交代が充分に行うことが出来なかった。その後、メキシコで禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ず、EMLLに大きく遅れをとることになってしまう。

1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷する。

1994年、社運をかけてAAAと団体対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになる。

1995年、ほぼすべての所属選手がAAAに移籍する大事件が起こり、一気に弱小団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けていた。

1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり、身の代金を工面するためにアレナ・ネッサワルコヨを売却する。常設会場を失ったことで約22年の歴史に幕を下ろした。

UWAの王座は日本とメキシコで定着しており、UWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。

2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた。

2018年2月28日、UWAの再興が正式に発表され、新日本プロレス・WWFで会長を務めた、現リアルジャパンプロレス会長の新間寿が新生UWA会長に就任。

UWA世界タッグ王座

UWA世界タッグ王座は、UWAが管理していた王座である。

歴史

1982年、メキシコLLIが創設。

1984年、空位となるが1991年に再開。

日本ではユニバーサル・プロレスリングみちのくプロレスでタイトルマッチが行われていた。

1995年、LLI解散後も王座のみ存続するものの、2000年にビジャノスが防衛戦を行わないため連邦区タッグ王者のロス・ラヨス・タパティオスがUWA世界タッグ王座を主張。その後、同王座を奪取した東京愚連隊、ブエロ・エスペシャル&エル・エンデイボール組も主張するがビジャノスは2004年、防衛戦を再開。

2008年5月11日、メキシコシティでヘル・ウォリアーズ(アニマル&パワー)がダミアン666&テリブル組を破り元UWA役員から王座を認定されているが正式なUWA世界タッグ王座とされず防衛戦も行われなかった。

ビジャノスの返上後に東京愚連隊が保持していた連邦区タッグ王座をUWA世界タッグ王座に認定。その後、プロレスリングElDorado管理下に置かれていた。ElDorado解散後は紅白プロレス合戦管理下に置かれていた。

2014年2月5日、紅白プロレス合戦新宿FACE大会で開催されたファイナル興行でヤス・ウラノ&HIROKI組が獲得したが異なる団体を主戦場としているため以降の防衛戦などは未定とされていた。3月23日、ユニオンプロレスラゾーナ川崎プラザソル大会にHIROKIが参戦した際に福田洋&MEN'Sテイオー組が挑戦を表明して4月27日、ユニオンプロレスラジアントホール大会で防衛戦が組まれることになった。以降は、それまでタッグ王座のなかったユニオンプロレス管理下に置かれていた。

2015年6月、バラモン兄弟に流出後に10月4日を最後にユニオンプロレスが解散。2016年、バラモン兄弟は主戦場にしている、みちのくプロレス後楽園ホール大会で東北タッグ王者日高郁人&藤田ミノルとダブルタイトルマッチが行われて勝利した日高&藤田組によって王座統一されて、みちのくプロレス管理下に置かれている。

Wikipediaより