人種差別や他国を拒絶したり現代社会は心の余裕を失っている気がする。
自分や自国さえ無事であれば他人や他国が犠牲になってもいい。
こんな考え方は間違っていると思うのです。この考え方は戦時中へ逆戻りするだけだと思うんです。
折角ここまで平和になったのに自ら世界を壊す必要はないですよね。
人種差別や他国を拒絶したり現代社会は心の余裕を失っている気がする。
自分や自国さえ無事であれば他人や他国が犠牲になってもいい。
こんな考え方は間違っていると思うのです。この考え方は戦時中へ逆戻りするだけだと思うんです。
折角ここまで平和になったのに自ら世界を壊す必要はないですよね。
LGBTって悪い存在でしょうか?
世代によって感じ方は変わりますよね。
10代20代世代はLGBTという言葉に比較的慣れているように感じます。
道で彼らとすれ違っても過剰反応する事は比較的少なく感じます。
30代は…よくわかりませんね。20代世代か40世代のどちらかですよね…
40代50代は割と反応しますよね、ネガティブな方に。
道ですれ違ったり電車で同じ空間に居たりする「とうわああおかまだ」とか反応してたりするのを見かけますね。
で、おじいちゃんおばあちゃん世代になると、嫌悪感を隠せずにいますよね。
ゲイの友達がいると学校の話の流れで話した所、そんな友達とは別れなさい!と怒られたりもした経験がありますね…。
でも、そんなに悪い存在でしょうか。
むしろ、自分に正直であり普通の人よりも心が強い尊敬する人々だと思うんです。
だって、もし自分がLGBTの人々を差別するような人間だったら、自分の周りが見えてなくて狭い視野で狭い考え方しかできないと思うんです。
それに比べて、彼らは人生の中でずっと現代社会と葛藤しています。話してみると周りにいるLGBTではない人達よりも考えていますしただ生きている私よりもずっと素晴らしい存在だと感じます。
確かに彼らの世界はそれ以外の人にとっては未知な部分は多いです。イメージするのも難しい。でも知ろうとしないから更に未知で分からない人たちと感じるのだと思います。
世代によって感じ方は変わるのでしょうが、私からしてみたら彼らは素晴らしい人々であって悪印象を持たれるような人達じゃないと思うのです。
私はたまに普通って何だろうって思います。
人によって普通の定義は違いますし、相手の普通を知るのも難しいと思っています。
それなのに何故大きなくくりの『普通』が存在するのかなって。
初めて会った人にご飯普通に入れてと言われても自分にとっての普通と相手の普通は違います。よそった量が相手にとっては少ないかもしれません、もしくは大盛りかもしれません。ご飯だけでも、普通という言葉は沢山の意味を持ちます。
それ程曖昧な言葉なのに何故『あなたは普通じゃない』『普通に生きなさい』『普通にふるまいなさい』『普通**するだろう』と言い手の価値観を聞き手に押し付けてしまうのでしょうか。
普通は場所によって環境によって色んな事によって変わってきます。普通という言葉が禁句なわけでもないですし悪い言葉でもないですが、個人にとっての普通の価値観を相手に押し付けてはいけないと思うのです。
差別、差別。今の時代「差別」という言葉がよく使われる。きっとそれは、全ての人がそれぞれの意見を発信出来るようになった証拠なのだろうと思っています。
その中でも特に「女性差別」という言葉を目にします。そして、女性差別の中に、露出の多い服を着れないのは女性差別という意見が存在します。
女性は露出の多い服を着ると悪い印象を与える。きっと多くの人がそう考えていると思います。そして、これは間違いではないと思っています。また、露出の多い服を着ている女性を男性が卑猥な目で見るのはセクシャルハラスメントだという意見もあります。
セクシャルハラスメント、確かにそうかもしれません。けれど、きっと男性の中には露出の多い服を着られる事で不愉快に感じる男性もいると思うんです。これもまたセクシャルハラスメントに該当するんじゃないか、と思ったんです。
例えば、電車で痴漢と間違えられた時、男性は不利な立場に立たされ、社会的地位を失う事も多くあります。これって、男性だからという事で不利な状況に陥るわけですよね。これもセクシャルハラスメントでは?とも思うんですよね。
セクシャルハラスメントは男性にも使えると思うんです。
凄く思うんです。今「**差別」ってたくさんありますけど、それらは乱用されるべきじゃないなって。女性差別と言えばものすごく大きな力が持てます。けれど、それって罪もない男性も不利にするものだとも感じるんです。
本当に差別問題って難しいですよね。
これを読んだ人で何か感じた人が居たらコメントしてほしいです。あなたが思う差別って何ですか?
アスペルガー症候群とコミュニケーションをとるのは難しかったりします。でも、考えてください、地球上の人々と当たり前のように簡単にコミュニケーションをとる事なんて出来ません。アスペルガー症候群の人達も同じ人間です、障害者というカテゴリーに入れて自分と区別してしまう事自体悲しいことなのではないかと感じるのです。
新しい環境になり、友人が出来始めた頃小学校の頃からの友人ととても似ている人が居ました。他の多くの友人はその人の事を嫌がり避けたりしました。彼らはきっとアスペルガー症候群というものをよく知らなかったのだと思います。だから、新しいタイプの人間等と言って避けました。また、なんで通じないのかな、なんで話通じないのかな、聞いてるのかな、なんで無視するのかな、と悪い面ばかりに多くの友人は気を取られました。私の場合は、アスペルガー症候群なのではないかなと予想していたのであまり気になる事はありませんでした、何故なら自分にとっては変な事ではなかったからです。
ある日、とても信頼している友人に問題となっていた友人がもしかしたらアスペルガー症候群かもしれない、だから悪く言わないであげて欲しいと怒られるのを覚悟して伝えました。分かっています、こんなことを私がいう事自体間違っているという事を。でも、知る事で見方が変わると信じ伝えました。予想した通り、嫌な顔をされました。そんな事を言うのは失礼だと言われました。当たり前ですね。確かに失礼なんです、他人はあの人は『アスペルガー症候群』だという事自体が失礼なんですね。
では、例えばです。女の子らしい男の子が居たらきっと周りの人は彼は『おかま』だと普通に言いますよね。きっとそれは、『おかま』という言葉が私たちに深く浸透しているからなんだと思います。他にも、『ゲイ』『レズビアン』『バイセクシャル』『性同一性障害』等の言葉も浸透し始め、タブー視されなくなり始めました。それは、多くの人々が彼らがどういう人々かを理解し始めたからです。それと同じように『アスペルガー症候群』も理解されるようになるべきなのではないかと思うのです。
もし、知り合いがアスペルガー症候群だった場合、そして話している時に意味が通じない事が起きた場合、あなたがもしその知り合いがアスペルガー症候群だと知っていたならばニュアンスの会話ではなくてはっきりわかりやすく明確な話ができるはずです。こっちが気を付ければ相手は同等の同じ人間なんです。しかし、もし私たちがこいつはダメだ、通じない、意味が分からないとマイナスな事ばかりを考えた瞬間私たち自身の手で彼らを同等ではなくしてしまうのです。要するに差別してしまっているのです。アスペルガー症候群を知らない事で私たちが罪もない人たちを傷つけてしまっているんだと私は感じるんです。
『知らなかったじゃすまされない』大人になるとよく聞くフレーズですね、これはアスペルガー症候群に関しても言える事だと私は思うのです。
アスペルガー症候群についてご存知ですか?多くの人はまず『アスペルガー症候群』と聞いた途端避けてしまうと思います。何故なら、この事ついて多くの事を私たちは知らないからです。そして、よく分からないからこそ『障害』というカテゴリーに入れ避けてしまうのだと私は感じるのです。また、アスペルガー症候群と口にするのもタブー視されていると感じるのです。でも、多くの私たちが考えている程『アスペルガー症候群』をタブー視する必要はないと思うのです。
私にとってアスペルガー症候群というのは身近にあるものでした。小学校の頃からの友人がそうだったからです。小学生というのは残酷で、思ったことをなんでも言ってしまいます、でもそれは周囲の人間に興味があるのと同じなんですね、言う事は感じた事をそのまま口しているわけですから今思い返すとアスペルガー症候群の特徴を見事に言い当てていたんです。
そして彼らは友人と自分たちを区別するようになったんです。何故なら、自分たちと違うと感じたからです。日本人は皆同じでなければならないという考え方が根付いているが為に、尚更なんの疑問も持たずにハブられてしまったんです。けれど、もし小学校の頃からアスペルガー症候群について知っていたならば、自分たちと違うからダメという考えかたは生まれにくかったんじゃないかと思うのです。
今の大人たちは障害というもの自体をタブー視します。そのくせ、テレビでは障害を持っている人の特集等をして視聴者に感動を届けようとします。そして視聴者もテレビを見ている間は可哀そうと感じ同情しながら見ます、けれど実際彼らに生活の中で出会うと同情どころか一切かかわろうとしないというのがほとんどです。どんなに、綺麗ごとを並べてもこの事実は変わらないと思うのです。何人かの人はこのような事を当たり前のように受け入れますが、どうして大半の人は避けてしまうんですね。
では、ここからはアスペルガー症候群とどのように向き合うべきかという個人的な考えを書こうと思っているので次のブログが更新されるのを少々お待ちください。
こんばんは、
今日は女性差別関連のことを書こうと思います。
女性が露出の多い服を着たらはしたないかそうではないか、について。
女性が自分が着たい服を好きなように着る、それはいけないことなのか。
私の意見としては、周りが不快にならない程度がいいとおもっています。
友人があるとき胸元が大きく開いている服を着た時に多くの男性がチラ見をしました、そして彼女は男性が悪い、自分が着たいから着てる、卑猥な気持ちで見られたくない、と言いました。
けれど、私は、だったら、好きなものをきたいのならそれだけの覚悟を持って着ればいいのにと思いました、卑猥な気持で見る男性も悪いですがそうさせているのは女性ですね、そしてそれが悪いというのは都合が良すぎるんじゃないか、と感じました。
その他にもファンションといえど、制服のスカートをめいいっぱい短くして歩いて、階段とかで、パンツ見られた~、と言ってる子達も、見られて嫌なのならしなければ良い。そしてこちらも見たくて見ているわけでは無く短すぎるがために、階段を上る際に視界に入って不快に感じることだってあります。
だから、女性でも思うんです、女性差別だと感じる人も居ますけど、女性だって理解しなきゃいけないんです、自分の身は自分で守らなきゃいけないってことを、なんでもかんでも男性を悪にしちゃいけないってことを。
こんばんは。
私が女性差別と感じる事について今日は書きます。
数日前、女性俳優(actress)と男性俳優(actor)について外国人の知人と議論をしました。
その知人は「何故女性男性と分ける必要があるのか、どちらもactorで良いじゃないか、分けるのは差別だ。」と言いました。
私個人としてはこれが差別なのかとても考えてしまいました。
何故なら極端に言うと女性男性を分けず一緒に扱うとしたらトイレも銭湯も一緒にするのか?となってしまうと思ったからです。私はそんな世界が来たら耐えられません。
次にその知人は「日本でも看護師と看護婦分けるのはおかしい、日本でも反対運動をしている人たちがいる」と言いました。
看護師は男性、看護婦は女性ですよね。
私がもし病院に行き看護婦さんについて行ってくださいねとかなんとか言われたら、あぁ女の人について行けば良いんだな、と感じます。
けれど、それ以前に多きい病院に行ったことがないので看護師看護婦の呼び方の実体をよく分かってないので何とも言えませんが。
本題に戻りますと、個人的には話しを聞いてる時に男性か女性か分かる方が聞き手としては分かりやすく感じると思うのです。
考えてみてください、もし映画を観ている時に「あの女優の演技が凄いね」と男性女性どちらも画面に出ている状態で言われた状況を。
私は、女の人の話をしているのだなと直ぐに理解できます。
けれど、もし男女どちらも画面に映っている時に「あの役者凄いね」や「あの俳優(男女どちらも指す意味を持った場合の俳優)凄いね」と言われたら、どちらの事を言っているか分からず聞き返さなければいけません。
私の場合は役者の名前を覚えていなかったり役の名前を覚えていなかったりするので俳優も女優も使えると伝える時にとても助かります。
でもその時差別を考えながら使っているかと言うと、それは違います、ただただ女の人の事をを手短に伝えたいが為に「女優」という言葉を使っているに過ぎないのです。
小学校で「くん」「さん」は差別になるから使わないというのも変に感じます。
例えば、友達が「**くんって優しいんだ」と言ったら、優しい男の子が居るのだなと容易に理解できます。けれど男の子の話をする時に「**さんって優しいんだ」と言われたら、聞き手は多分女の子なのかなと予想をしながら聞きます、そして話が進むにつれてだんだん「あれ女の子にしてはとても活発な子だな」とか誤解が生まれてきます。
こちらとしては、話を聞くときに性別を理解して聞いてるほうが理解がしやすいと思うのです。
だから、男女分けて呼び方があるのには深い意味はないのではないでしょうか。
ただ、話を進めやすい、相手に伝わりやすい、ってだけなんじゃないでしょうか。
私はこれらは男女差別ではないと思うのです。
ただ例外として、女優はダメだ、俳優の方が上手い とか 看護師は使えるが看護婦はダメだ等のあからさまに男女を差別してる意見は差別だと感じますね。
あなたはどう思いますか?
こんにちは。
私はここにこれから書いていく事は人権や女性について書いていこうと思います。