蝿は金冠を選ばず・・・木村重成/小名木先生

2023年3月12日

 


文責:国史啓蒙家 小名木善行

参政党の街頭演説にやってきては大声を張り上げていたうるさい蝿は、裁判所が命令を下すことでひとまずはおさまりました。
これから地方選に、大阪府知事選と重要な局面を迎えるにあたり、ちょうど良いタイミングであったと思います。
50デシベル以上の音量を出してはいけないという裁判所の命令ですが、50デシベルといえば、静かな室内でのひそひそ話程度の音量です。
これで再び堂々と街頭演説を戦えます。
さて、まともなものが出てくると、これを必死に叩こうとするうるさい蝿というのは、いつの時代にもあるものです。
そこで、戦国時代末期の大坂の陣の少し前辺りの時代にあったお話をひとつお届けしたいと思います。
タイトルの「蝿は金冠を選ばず」という物語は、もしかするとご存知の方もおいでになるかもしれません。
けれど、この物語は、昭和天皇がとても愛されたお話でもあります。


木村重成は、慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣で、豊臣方の主力として東大阪市南部方面に進出し、藤堂高虎の軍を打ち破ったものの、井伊直孝との激戦に敗れ、わずか二十二歳で戦死した武将です。
人柄が立派で美男子で教養もあり、腕も立つ。
しかも殿様です。大坂城内でもたいへんな人気がありました。
けれど、そうなるとなかには妬む者もあるのです。
「男の嫉妬と女の恨みほど恐ろしいものはない」といいますが、まさにその通りで、大坂城にいた山添良寛という茶坊主が、まさにそのひとりでした。

茶坊主といっても腕っ節が強く、五人力の力自慢な男です。
常々から、
「まだ初陣の経験もない優男の木村重成なんぞ、ワシの手にかかれば一発でのしてやる」
と、はばかることなく公言していました。
そんな山添良寛、茶を手にして大坂城内の廊下で木村重成を待ち受けました。
そしてわざと、手にしたお茶を木村重成の袴にひっかけました。

「気をつけろい!」
良寛が重成をにらみつけました。
良寛にしてみれば、それで喧嘩になればしめたもの。
人気者の木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくとでも考えたのでしょう。
この手の身勝手な自己顕示欲を持つ者は、いつの時代にもいるものです。

ところが木村重成、少しも慌てず、
「これはこれは、大切なお茶を運ぼうとしているところを失礼いたしました。お詫びいたします」
と、深々と頭をさげました。
そんな重成の様子に、嵩(かさ)にかかった良寛、
「そんな態度では謝ったことになりませぬ。土下座して謝っていただこう!」
と大声で迫りました。

怒らせて先に手でも出させればしめたもの。
大坂城内での喧嘩刃傷沙汰はご法度です。
武士である木村重成は、身分を失って大坂城を追われるだけでなく、場合によっては切腹です。
かたや地位ある武将、かたや地位のない茶坊主です。
良寛にしてみれば、木村重成が失脚すれば「ざまあみやがれ!」というわけです。
何かに似てますね。

さて、木村重成は、初陣経験のない大坂城勤務とはいえ、一国の大名です。
しかも豊臣秀吉の子・秀頼の側近です。
相手はたかが茶坊主で、しかもこれは言いがかり。
そのような状況で、殿様である木村重成の土下座などあり得ないことです。

ところが木村重成、
「それは気がつきませなんだ」と言うと、膝を折り、床に膝をついて、深々と頭を下げて、「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げました。
すっかり気をよくした良寛、勝ち誇った気になって、
「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。ワシに土下座までして謝った。だいたい能力もないのに、日頃から偉そうなんだ。」
と、勝ち誇ったように言いたい放題。
そして、あることないこと木村重成の悪口を大坂城内でふりまきました。

日頃から人望がある重成です。
誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい。
ところが人間おかしなもので、日頃抱いていたイメージと、まったく違うことが流布されると、びっくりして、耳がダンボになってしまいます。
これを「認知不協和」といいます。
良寛のまき散らした噂は、たちまち大坂城内に広がりました。
なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという噂は、木村重成の貫禄の足らなさだということになって、まさに大坂城内の語り草になったのです。

この時代、大坂の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからないという世情でした。
そういう時代ですから戦国武将たるもの、常に武威を張らなければ、敵からも味方からも舐められてしまいます。
舐められるということは、武将としての名誉にかかわることです。

噂というものは必ず本人の耳にも入るものです。当然、重成の耳にも入ってきました。
登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。
心配した周囲の人が、「よからぬウワサが立っていますよ」
と重成に忠告もしてくれました。
しかしなぜか重成は、笑って取り合いませんでした。

噂はついに重成の妻の父親の耳にも入りました。
この父親はとんでもない大物です。
大野定長といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長の父であり、戦国の世で数々の武功を立てた英雄でもありました。
重成の妻で、美人のほまれ高い青柳は、そんな大野定長が目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘です。
その娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされている。
そうなれば大野の家名にも傷がつく。

「よし、ワシが重成のもとに行き、直接詮議をしてくれよう。ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、嫁にやった青柳に荷物をまとめさせて、そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」
と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。

定長は言いました。
「重成殿、かくかくしかじかの噂が立っているが、茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。なぜその場で斬って捨てなかったのか。貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、ワシが代わりに斬り捨ててくれる。
何があったか説明されよ。さもなくば今日この限り、娘の青柳は連れて帰る!」

重成が答えました。
「お義父様、ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。ただ、お言葉を返すわけではありませぬが、剣の腕なら私にもいささか自信がございます。けれどもたかが茶坊主の不始末に、城内を血で穢したとあっては私もただでは済みますまい。場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。
あ、いやいや、腹を斬るくらい、いつでもその覚悟はできております。
しかし、仮にも私は千人の兵を預かる武将にございます。ひとつしかない命。どうせ死ぬなら、秀頼様のため、戦場でこの命を散らせとうございます。」
そして続けて、
「父君、『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。
蠅には金冠の値打ちなどわかりませぬ。たかが城内の蠅一匹、打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする。」

これを聞いた大野定長、
「なるほど!」
と膝を打ちました。

蠅はクサイものにたかります。
クサイものにたかる蠅には、糞便も金冠も区別がつきません。
そのような蠅など、うるさいだけで、相手にする価値さえない。

たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、
「ウチの娘の旦那はたいしたものじゃ。『蠅は金冠を選ばず』と言うての、たかが茶坊主の蠅一匹、相手にするまでもないものじゃわい。」
と婿自慢を始めます。

日頃から生意気で嫌われ者の茶坊主の良寛です。
これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が大坂城内に広まりました。
挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちまで、
「オイッ!そこの蠅坊主、いやいや良寛、お主のことじゃ。そういえばお主の顔、蠅にも見えるのお。蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主じゃ!わはははは」
と、さんざんからかわれる始末となりました。

ただでさえ実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。
「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
「かくなるうえは俺様の腕っ節で、あの生意気な重成殿を、皆の見ている前でたたきのめしてやろう」
と機会をうかがいました。

機会はすぐにやってきました。
ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。
しかし、いかに裸で背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。
正面切っての戦いを挑むほどの度胸はない。

良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。
なにせ五人力の怪力です。
殴った拳の威力は大き・・・かったはずでした。

ところが・・・。
「イテテテテ」
と後頭部を押さえこんだ男の声が違う。
重成ではありません。
頭を押さえていたのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛でした。
体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。

いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤に怒って脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、
「今殴ったのは誰じゃ!出て来い!タタッ斬ってやる!」
と、ものすごい剣幕です。
風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守りました。
そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。

「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが・・・。そこの良寛!おぬし人違えでワシを殴ったな!

なに、返事もできぬとな。ならばいたしかたあるまい。ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。
じゃが、ワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。拳には拳でお返しするが、良いか良寛!そこになおれ!」
と、拳をグッと握りしめました。

戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。
腕は丸太のように太いし、握った拳(こぶし)はまるで「つけもの石」です。
又兵衛はその大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。
又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだったけれど、殴られた良寛は一発で気を失ってしまいました。

又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの浴室の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、倒れている良寛のもとへ行きました。
「あわれな奴。せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」
と、ひとことつぶやき、
「エイッ」と良寛に活を入れ、そのまま去って行きました。

さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、
「イテテテテ。後藤又兵衛様では相手が悪かった。次には必ず木村殿を仕留めてやる」
その時、そばにいた同僚の茶坊主が言いました。
「良寛殿、あなたに活を入れて起こしてくださったのは、その木村重成様ですぞ!」

これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりませんでした。
「ただの弱虫と思っていたのに、ワシを助けてくれた?なぜじゃ?」
そのとき、ハタと気付いたのです。
重成殿はワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、城内という場所柄を考え、自分にも重成殿にも火の粉が架からないよう、アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだと。
「そうか。俺は間違っていた。木村殿の心が分からなかったワシは大馬鹿者だ!」
良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。

この年、大坂夏の陣の時、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死しています。



我が国には古来「美しく立派に生きることを愛する文化」があります。
人の身は泥まみれになって一生を生きるけれど、同時に人には霊(ひ)が備わっています。
その霊(ひ)は、正直に、美しく、立派に、清らかに生き、そして死んで神になる。
だからその道のことを「かんながらの道」と言います。

霊(ひ)のことを、別な言い方で「たま」と言います。
「たま」は、魂であり、球体をした球であり、磨くことで、ますます美しく光彩を放ちます。
だから日本人は、「たましい」を磨くようにして生きることを好むし、望みます。
諸外国にない日本人を日本人たらしめている文化が、ここにあります。

「美しく立派に散るぞ」
そう言って一番機に向かう戦友(とも)の胸に、俺は桜の一枝(ひとえだ)を飾って贈った。
明日は俺の番だ。
死ぬときは別々になってしまったが、靖国神社で会える。
そのときは、きっと桜の花も満開だろう。

海軍少尉小野栄一
身長五尺七寸、体重十七貫五百、極めて健康!
(鶴田浩二「同期の桜」より)