日本の水を守ろう/小名木善行
2022年12月4日

 

文責:国史啓蒙家/参政党アドバイザー 小名木善行

誰もがあたりまえのように使っている水道ですが、実は、江戸時代にすでに江戸の水道は、世界一の規模と内容をもっていました。そもそも人の生存には、1日に2リットルから3リットルの水が必要であるといわれています。先の大戦で地上での玉砕戦となった拉孟【らもう】の戦いのとき、日本陸軍の守備隊が、5万の精鋭を相手に、わずか1200名で120日間もの長期戦を続けることができたのも、日本陸軍の勇敢さもさりながら、実は守備隊長であった金子恵次郎大佐がおよそ3000メートルにもわたる水道を守備隊陣地に引いていたことによります。

人間は昔から、湧き水のあるところや川の流域など、飲み水を手に入れやすいところに住居を構えて生活を営んできました。次第に人口が増えてくると、水を簡単に手に入れることができない土地にも進出しなければならなくなります。そこで人々は井戸を掘ったり、川に堰【せき】を設けて水を引いたりしていました。あたりまえのことですが、多くの人が集まる都市では、生活や産業に使用する大量の水を安定的かつ効率的に供給しなければなりません。

徳川家康は、小田原攻めの後、天正18(1590)年に江戸に転封となりました。当時の江戸は、大湿地帯です。海岸線は江戸城大手門近くまで迫り、現在の日比谷公園・皇居外苑のあたりは日比谷入江と呼ばれる浅海でしたし、浅草は、麻がいっぱいに茂った沖の小島でした。西側の武蔵野丘陵には小さな川や湧き水がありましたが、低地は井戸を掘っても、その水質には海水が混じり、塩分が強くて飲めません。飲み水がなければ、家康は、大勢の家臣団を居住させることができませんから、家康が家臣の大久保藤五郎に命じて最初に築いたのが小石川上水です。
小石川上水は、井ノ頭池が水源です。その湧き水を、関口村(現在の文京区)まで引っ張ってきて、そこに築いた大洗堰【おおあらいせき】で水位をせき上げ、これを水戸藩邸(現在の後楽園)まで開削路で導水し、神田・日本橋方面に給水しました。ちなみに水戸藩邸では、その水で鯉を飼うことで、水の安全を確認していました。安全な状態なら、そのまま水を流す。鯉に万一のことがあれば、すぐに水門を閉じて緊急に備えるなどの配慮もされていました。いま地図を見ると、渋谷から吉祥寺に向けて、ほぼ直線の道路(水道道路)がありますが、この道が、当時の水道跡です。



さらに江戸の人口の増加に併せて、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の西南部に造られました。この2つの水道が完成したのは、三代将軍家光の時代です。けれど、江戸の人口はその後も増加の一途をたどり、小規模の二上水では増大する水の需要がまかないきれなくなりました。
そこで、徳川幕府が多摩川の水を江戸に引き入れるという壮大な計画を立てたのが、承応元(1652)年のことです。この計画は、なんと町人からの提案で、提案者は、庄右衛門、清右衛門という市井の兄弟です。幕府は二人から出された設計書に基づき、幕府内部での検討ならびに実地踏査を行い、工事の総責任者(総奉行)に老中松平伊豆守信綱を就任させました。
そして提案者である庄右衛門、清右衛門兄弟に工事の総監督を委ね、承応2(1653)年4月から、同年11月までの間に、羽村取水口から四谷大木戸まで、なんとわずか8ヵ月で堀を築きあげています。これが玉川上水です。玉川上水は、距離約43キロメートル、高低差約92メートルです。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして、武蔵野台地のりょう線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する自然流下方式による導水した。



その玉川上水開設から3年後の明暦3(1657)年に起きたのが、明暦の大火です。この火事は江戸の三大大火のひとつで、俗に「振袖火事」と呼ばれています。麻布の質屋のたいそう美しい娘さんの梅乃さんの怨念が火事を招いたという噂から、そのような名前が付きました。
幕府は、明暦の大火を契機として、大幅な復興再開発を行いました。この開発によって江戸の町は、はさらに周辺部へと大きく拡大発展するのですが、拡大した江戸周辺地域に給水するため、万治・寛文年間(1658~1672年)には、亀有上水、青山上水、三田上水が相次いで開設され、元禄9(1696)年には千川上水も開設されています。
亀有上水は、中川を水源とし、本所・深川方面に給水しました。それ以外の3上水は、玉川を起点とし、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水されています。こうして、元禄から享保にかけて、江戸は6系統の上水によって潤されるようになりました。



ところが、8代将軍吉宗のとき、このうちの亀有・青山・三田・千川の4上水は廃止となりました。これは当時の儒官、室鳩巣(むろきゅうそう)が、風水によって「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」と提言したことによると言われています。
こうして江戸時代の後半は、神田上水と玉川上水が100万都市江戸の人々の暮らしの基盤となり、この2上水が江戸から明治・大正・昭和、そして平成へと、流れ続けています。
ちなみに江戸では、なんと水質、水量管理もされています。先程の鯉による水質管理だけでなく、水番人という制度を設けて上水を常時見回って、ゴミ除去し、水質を保ちました。もっともそうは言っても、数少ない水番人だけでは、水の清潔さの維持はできません。ですから江戸に限らず全国津々浦々、水を守るために、人々は上水にゴミを捨てたり、汚物を流すまた「取水番人」が取水口に常時はりついて、上流が豪雨の時は水門を閉じて濁り水を川に還流したり、日照り続きになると、給水制限をしたりもしていました。

上水は、川の上流のきれいな水を、青天井の川で江戸まで引き込むというものですが、こうして江戸市中まで伸ばした川の水は、今度は土中に埋めた石の樋【とい】(石でできた配管のこと)によって江戸市中に分散され、さらにこの石の樋から、地下で木でできた樋に流し込み、その木樋の水が、武家屋敷や各長屋に掘られた井戸に分配されていました。人々は、その井戸の水を「つるべ」を使って汲み上げて飲料水等に用いていたわけです。
こうしてできた江戸の水道の総延長は150キロメートルに達するものとなりました。そうしてできた水道で、江戸は人口200万人を超える人口を養ったのです。総延長といい、その仕組といい、これは掛け値無しで当時にあって世界一の水道設備でした。



ちなみに17世紀のロンドン、パリの人口は40~50万人。パリは、市内に流れるセーヌ川の水を風車で揚水していましたが、セーヌ川自体がかなり水質汚染されていましたので、人々は生水を飲むことができず、代わってワインが飲料水になっていました。またロンドンは、30キロ先の泉から導水していますが、その総延長は60キロ。しかもその水は、ロンドンの市内においても青空天井の水道になっていました。日本では市街地では水道を地下に通したのですが、それは水の汚れを防ぐためです。もちろん現代においても、水道は地下の配管を通っています。そのほうが衛生を保てるからです。早い話、江戸の水道ほどの規模・衛生度の人工的水路は、同時代の世界中、どこにも見あたらないものです。
昨今では、役所で行う公共工事を、一部のメディアや政治家が、まるで悪の巣窟のように述べる風潮があります。しかし私たちが普段、何気なく使っている水道水ひとつをとってみても、多くの先人たち、あるいは今日のただいまの、私たちの水を守る水の番人さんたちによって、長い年月をかけて守り育まれてきたものです。
バブルが崩壊後、日本ではメディアをあげて、改革改革と叫んできましたが、それら改革によって、なにか良くなったことがあるのか、といえば、答えはゼロ。加えて世界に誇った日本の治安や安全は、もはや風前の灯。公共事業であるべき水道事業は、なぜか利益目的の企業に売却され、美味しい水の水源地は外国人によって買い荒らされている状況です

水を守ることは、私たち日本人の命を守ることです。小手先の改革ではない、抜本的な日本の大改造が、いま求められています。そしてそれが実現できるのは、国民が政治に参加する参政党だけです。

以上