天才と呼ばれた男
仲の良い同級生とお酒を飲むと、必ず昔の話になりませんか?
小学校時代までさかのぼった時に必ず私に対して言われる言葉があります。
「お前は変わっとった!」と・・・
「なぁ、こいつ(私の事)5年生の時か、工作の時間に作った”ペン立て”知っとるか?」
「ハセミやろ?」
「ほうよ!わし最初は”ハサミ”か思ぅとったら、裏に”KE007”やと。それなんじゃ?言うて聞いたら・・・」
「なんや、そんなんも知らんの?言われたんよのぉ」
と言う会話が交わされています。それをニヤニヤしながら聞いている私。
私がその時に作った”ペン立て”のモデルとなったのが
往年の名ドライバー「長谷見昌弘」さんだったのです。
そして、もう一面に書かれた「KE007」が
1976年日本で初めて行われた「F-1選手権イン・ジャパン」(紆余曲折有って、この年だけ「日本グランプリ」とは呼ばれてません)の予選セッション1回目でいきなり4位の好タイムをたたき出し、2回目のアタック途中まではポール・ポジションを上回るタイムで走行していたマシンなのです。
結果的にそのアタック周回の最終コーナーで、強度不足のアームが折れコースアウトしてしまうのですが、”れば・たら”がもしあったとしたら、日本人初のF-1でのポールシッターとなっていたでしょう。
当時は予選が金・土の2日間4回行われていたので、土曜日から日曜日の朝に掛けて全損のマシンをゼロから作り上げ決勝に間に合わせた事は、幻のポールポジションと合わせてF-1関係者からは”東洋の奇跡”と言われてました。
”日本一速い男 星野一義”、”日本人初のF-1レギュラードライバー 中嶋悟”、F-1初の表彰台 鈴木亜久里”と巷で有名なドライバーはいらっしゃいますが、”元祖・天才ドライバー 長谷見昌弘”を忘れて貰っちゃ困ります。
昔と今とでは、レース界の環境も全然違っているとは思いますが、創意工夫を重ねて少しでも早く走る!と言う「長谷見」さんの心意気は失くしてはダメだと思います。
ドライビングで悩んでいる人が居ましたら、今月号の「Racing on」は必読ですよ。特にP26は!