こんにちは。はじめまして。
ただいま「引き寄せの法則」実践中のムラサキです。日々の意識遊びへの独自の考察を形にしたくてブログをはじめました。よろしくです。
ちょうど2ヶ月ほど前にエイブラハムとの対話という引き寄せ法則に関する本を読んだ。
スピ難民になった数年前から、「意識」というものへの独自の考察が始まった。
「意識遊び」は、どこまでも自由で形がないぶん、どこまでも伸び代がある。
だがその逆に、ドツボにハマるとなかなかの痛みをもたらす。
「意識」はこの物理世界の理解をはるかに超えた果てしがない大海原だ。
スピ難民を脱却するためには"教え"や"言葉"を持ち歩かない、ことが大前提だ。
どこまでも広大な意識を、そもそも「言葉」という記号で切りとれるはずがない。
誰かから聞いた、読んだ、言葉や教えを真理のように握りしめているとボタンのかけ違いが起こりまくる。
常に自分の感覚に従うことでしか真理は見えない。
私は何年もスピ難民だったため、スピ界の「こうした方がええよ」と言われていることをたくさんやってきた。(だらしないためどれも三日坊主)
だけど、いま意識しているのはほとんどこの2つ。
1. どこまでもわがままに、贅沢に、自分の望みをすくいとる。
2. ぜんぶ捨てる。
1について。
どこまでもどこまでも、わがままに、贅沢に自分の望みをすくいとる。
今の自分の年齢や国籍、性別、家族関係 etcを一旦すべて捨ててみる。今もし誰かのお腹の中にいる赤ちゃんだとしたら、生まれた後の人生に何を望む?
宇宙は、わがままに、贅沢になったもの勝ち。
妄想ポイントとして、「いかに自由に、楽しんで妄想できるか」が命。
以前は大学ノートに未来の望みを書いていたこともある。
だが家族に読まれてしまう心配が1%でもある以上、思いっっっっっっっっきりリラックスして自分の内側と対峙できなかった。
だから今は妄想するのはほとんど頭の中のみだ。
「書く」という作業が邪魔だったのもある。
望みは"言葉"なんていう制限だらけのものに集約できるようなしょぼいものではないし、
打ち上げ花火みたいに頭の中に上がっては散り、上がっては散る、「匂い、感情、記憶、音、色、空間、方向感覚」がぜーんぶごちゃ混ぜになった超超超感覚的なもの。
私は書く作業をすると、それらのごちゃ混ぜのものたちを「捉えなければいけない」と思ってしまい、妄想自体がつまらなくなってきて途中でやめてしまうのだ。
捉えなくていい。
「自分のほんとうの望みを見つける」こと自体に価値があるのだ。
「他の誰でもない、この "私が" 、好く。」、を見つけること以上に喜びを感じられる瞬間はない。
それを記録したり形にしようとするズルさやもったいなさを捨てて、とことん妄想と戯れる。抱く。抱かれる。踊る。交わる。食べる。味わう。匂う。
本当の望みを見つけられたら、全部それは一番安全な "わたし" に大事に保管される。一番安全で、一番誠実なノート。だから安心して、「私が好く」を探すことだけに没頭すればいい。
やり方はなんでもいい。
続かないようであれば、それはやり方が間違っているというサインだ。
「自分だけのやり方」を見つける。言葉や誰かの「やり方」をあてにしてはいけない。
「"私が"、好く」をどこまでもわがままに贅沢に、無邪気に、自由に、非道徳的に、乱暴に、クレイジーに、妄想する。今ある世界のもろもろのルールなんてうんこだ。
2について
妄想遊びがだいぶ板についてきた矢先、ある壁にぶつかった。
エイブラハムはこう言ってます。「いやな気持ちや想像が生まれてきたら、望む方へ意識を向けよ」と。
これが私がハマった第一のトラップ。
はじめ妄想たちは鮮やかなキレイな色、懐かしい匂い、魂のふるさとへのノスタルジー満載、涙がこみ上げる美しい気持ちでぎっしりだった。
あるときから妄想遊びにモヤがかかるようになった。
どんよりしていて、アウトラインだけは似ているけど、中身が全く違う。
なんで?!
焦る。
「私が 欲しいであろう こと」を想像しているのに、気分がよくならない!!
●「なんか大きいことを望まないと、もったいない」
●「引き寄せの法則は必ず宇宙に一定に中立に無慈悲に無感情で作用している。だからはやく活用して恩恵を受けなければ!」
●「私はもっと望むべき」
、、、、みたいな。
引き寄せの法則を体感している人はなおさら焦るのだ。
そのときはっきり頭の中に届いた声。
「望むのをやめなさい」
その瞬間の私にしか、受け取れない言葉。あまりにも明瞭な声。
その言葉が響いた瞬間は理解できなかった。妄想のどんよりがなんなのかわからなかったし。だが数分後、わかった。
私は「望むことに執着していた」のだ。
さっきの
●「なんか大きいことを望まないと、もったいない」
●「引き寄せの法則は必ず宇宙に一定に無慈悲に常に作用している。だからもっと活用して恩恵を受けなければ!」
●「私はもっと望むべき」
だ。
ロードオブザリングの指輪の話と同じだ。みんな、「指輪そのもの」に取り憑かれているのではない。「欲しい、欲しい」という「執着自体に執着している」のだ。
もっと単純な例。
SALEコーナーをたまたま見つけて物色している。
私たち数人が物色しているのを見つけた欲張りおばさんたちがあっという間に群がってくる。
その人たちはそこに並んでいるセール商品がはじめから欲しかったわけではない。「セール商品」という文字と、それを先に数人が物色している、という事実に反応し、彼女たちの中に執着が生まれるのだ。
何に対しての執着か?そこに実態はない。
執着とは常に、何か固有の対象物に結びついているものではない。漠然とした「不足感」からくる人間の普遍的な"反応"だ。
そして何かを「望んでいる状態」は、苦しい。いつのまにか「妄想遊び」には"なんかもっといいもんを引き寄せよう!"という目的が張り付き、執着に変わってしまっていた。
何かを「しよう」としている時は、苦しい。はじめは天真爛漫に妄想遊びを楽しんでいたのに、いつからか妄想遊びが目的のための「ツール」にすり替わっていた。
妄想遊びを無邪気にしたら、そのあとは勇気を出して望むのをやめる。捨てる。
「あんた、それ欲しいはずやろ?」と執着が囁いてくる。
「なんかをしよう」としてしまう方向へ、連れて行こうとする。
無邪気でいつづけるためには、"捨て"つづけなければならない。
何をって?
ぜんぶ。
好いては捨てる。ぜんぶ。
好いては捨てる。ぜんぶ。
好いては捨てる。ぜんぶ。
「捨てる」
すてる、SUTERU、捨てる、この行為をする瞬間に、「目的」はない。
目的があったらそれは「捨てる」行為ではない、また別の目的のために「捨てる」をツールとして捉えてしまっている。
では何が「捨てる」へ駆り立てるのか?
「"私が"、好く」ものたちだ。