いつからだろう、無欲を目指すようになったのは。


いや、別に目指した訳じゃない。ただ結果的に、無欲になりたいと思った。無欲がいいと思った。意味を求めて必死になった時もあるけど、そんなに満たされなかった。どちらかというと楽しくない日のほうが多かった。それは飽きっぽいとか諦めが早いというよりは、もっと根本的な何かだった。あるいは時代の空気に便乗しただけなのかもしれないけれど、それはたぶん、意味を求めること自体に意味を感じられなくなったからだと思う。


別に欲が穢らわしいとか、そういう宗教的な観念があったわけじゃない。ただ欲望が剥き出しの人を見て、みっともないと思っていたのは事実だ。だから自分はそういう人間にはなりたくないと思ったし、できれば自分のことより人のことを優先して考えられる人になりたいと思った。難しく言えば利他的な人、簡単に言えば優しい人。マザーテレサとは言わないけど、人のために自己を犠牲にすることも厭わない人間に憧れた。


でもこの時はまだ、本当の意味の無欲とは程遠かった。人に優しい自分を志している時点で、それは立派な欲だった。本当の無欲とは、人のためになりたいという思いすら持ち合わせていないことだった。マザーテレサは決して無欲ではなかった。でもそれは本当に自分が目指していた姿なのか?一瞬迷ったけれど、すぐにその迷いは掻き消された。そんなこともどっちでもいいと思えるくらい、気付けば順調に欲を失っていた。


ただここで一旦整理しておくと、自分が失いかけていた欲は、必ずしも全ての欲ではなかった。立派に美味しいご飯を食べていたし、人並みに眠ってもいた。美人を目で追うことも忘れなかったし、できれば死にたくないとも思っていた。単に生きるために割り切っていただけとも言えそうだが、それはたぶんちがって、自分は生理的な欲求にはあまり興味がなかったんだと思う。興味がないからなくそうとも思わなかった、別にどっちでもよかった。自分が興味があったのは、圧倒的に実存的な欲求のほうだった。実存的な欲に支配されていない人は、何となく偉いと思った。そういう人になりたいと思った。


そうして気がつけばかなりの部分、実存的に無欲になっていった(と思うようになった)。でもそれは、決して虚無的になることではなかった。虚無を感じているうちはまだ欲が残っていて、その裏返しとして絶望するのだといえる。でも本当に無欲になると、先述のとおり、基本的には物事がどっちでもよくなる。どっちでもいいから絶望することはないし、何かを目指すこともなくなる。戦略的無欲といえばそうかもしれないが、この時点では、すでに当初の思いなどどうでもよくなっていた。ただ毎日を淡々とこなし、生きる。それだけだった。


こう書くとまったく自分がないように思われがちだけど、そうでもなかった。一応それなりに自分の考えはあって、実存的に無欲(のつもり)なくせに、正しさへの意欲はあった。ただあえて主張することもなく、誰かを否定することもしなかった。自分の行動を決める時にあるのは主に快不快の感情で、当然不快よりは快のほうがよかった。だから基本的には快の感情に従いつつ、自分なりに正しく行動するよう努めた。ただ例えば、あまりにも自分の快が脅かされるような状況に陥った時には、それでも貫きたいと思うほどの正しさへのこだわりは、おそらく持ち合わせていなかったと思う。


そろそろ終わりにしたいと思う。そうして無欲化を推し進めた結果、どうなったのか。結論としては、別にどうもならなかった。相変わらず、淡々と毎日を過ごしている。それだけだ。ただ一つ言えるのは、毎日が平穏に暮らせるようになった。心が乱されることがほとんどなくなった。まるで老人のような気分だ。快不快でいえば、何となく心地いい。そんな気分で日々を過ごしている。


最後に補足をすると、これだけ無欲を語っておきながら、この文章を書こうという欲だけは、決して失っていなかった。はっきりはわからないけど、たぶん何となく、自分の中にまだ辛うじて実存を求める気持ちが残っていて、ちょっと書き留めておきたいと思ったんだと思う。そうして少しでも、これを読んで何か感じてくれる人がいたらいいなと、期待したんだと思う。じゃあやっぱり実存的な欲はあったほうがいいんじゃないかと思うかもしれないけど、それはわからない。どっちでもいい。程よいバランスが大事かもしれない。ただ自分は無欲がいいと思ったし、今の自分はそれなしにはあり得ない。そんな自分を否定するだけの欲もないから、たぶんこのままでいいんだと思う。


まとまらないけど、これで終わりにしたいと思う。たぶん今って、自分みたいな若者が結構いると思う。そのこと自体は、悪くない世の中だとも思う。
ここまで読んでくれた方、どうもありがとうございました。