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剱埼灯台についての説明文♬

 

こんにちは、レンズ小僧です。

 

剱埼灯台が関東大震災により被害を受け再建されたのが1925年7月1日です。今年でちょうど100年になりました。

それを記念して、横須賀海上保安部主催による剱埼灯台の一般公開が7月5日(土曜日)に開催されます。

 

剱埼灯台サポーターは一般公開を支援する事になり、私は灯台の説明などを担当する予定です。

そこで説明の原稿を作成したのですが、トータルで20分ぐらいになってしまい、削りに削って5分まで短縮。

せっかく書いたのに捨てるのはもったいないので、削る前の原稿をこちらに掲載します。

 

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[剱埼灯台 説明原稿]※注釈(小文字)含む

 

1.剱埼灯台の呼称について

まず、この灯台の正式な名称ですが『つるぎさきとうだい』と言います。『さき』は濁点がつきません。

漢字で書くと、『さき』は山へんではなく、土へんです。

この埼の字は『陸地が海に突き出た所』と言う意味があります。

海上保安庁では、多くの灯台において土へんの埼の字を用いています。一方で国土地理院では山へんの崎を使っています。

また地元では、ほとんどの人が『けんざき(剣崎)』と呼んでいます。

※海上保安庁の海図では土へんの『剱埼』、国土地理院の地図では山へんの『剱崎』。

 

2.初代 剱埼灯台

次に初代の剱埼灯台について説明します。

1866年(慶応2年)に江戸幕府が外国(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ)と結んだ条約(改税約書:江戸条約)で、貿易を行う外国船舶の為に灯台などの航路標識の設置が求められ、のちに全国8ケ所の灯台建設地が決まりました。

その一つが、この剱埼灯台です。

※8ケ所

  ・観音埼灯台

  ・野島埼灯台

  ・樫野埼灯台

  ・神子元島灯台

  ・剱埼灯台

  ・伊王島灯台

  ・佐多岬灯台

  ・潮岬灯台

※この他に、横浜灯船・函館灯船が含まれる。

※のちにフランスの要望で品川灯台と城ケ島灯台が追加される。

 

当時の日本は灯台を建設する技術が無かったので、外国に依頼しました。

江戸幕府はフランスと契約して、最初に観音埼灯台が完成し点灯しました。

1869年2月11日(旧暦・明治2年1月1日)の事です。

総責任者がフランソワ・レオンス・ヴェルニー、実務はルイ・フェリックス・フロランが担当しました。

フランスはその後、野島埼灯台・品川灯台・城ケ島灯台の4つの灯台を建設しました。

明治維新後、新政府は灯台建設をイギリスに依頼します。派遣されたのがリチャート・ヘンリー・ブラントンです。ブラントンは8年間に26基(諸説あり)の灯台を建設し、『日本灯台の父』と呼ばれるようになりました。

 

※明治初期の灯台(初点灯順)

① 観音埼灯台 神奈川県 1869年2月11日 現在3代目

② 野島埼灯台 千葉県 1870年1月22日 現在2代目

③ 品川灯台 東京都 1870年4月5日 廃止・明治村に移築

④ 樫野埼灯台 和歌山県 1870年7月8日 二度の大改築

⑤ 城ヶ島灯台 神奈川県 1870年9月8日 現在2代目

⑥ 神子元島灯台 静岡県 1871年1月1日

⑦ 剱埼灯台 神奈川県 1871年3月1日 現在2代目

⑧ 江崎灯台 兵庫県 1871年6月14日

⑨ 伊王島灯台 長崎県 1871年9月14日 現在3代目

⑩ 石廊埼灯台 静岡県 1871年10月5日 現在2代目

 

当初、剱埼灯台は鉄製の灯台として建設される予定でした。

ところがイギリスから資材を積んで日本に向かっていた船が東シナ海で沈没してしまいます。

灯台の建設は急がれていたので、ブラントンは急きょ石造りに変更して建設を進める事にしました。

※石造りに変更した理由としては、先に石造りで建設を進めていた樫野埼灯台が完成間近で石工を呼べそうだった事や、同時に建設を進めていた石造りの神子元島灯台の石材(伊豆石)を伊豆下田から調達していたので剱崎への材料輸送が容易であったことなどが推測できます。

そしてブラントンが手掛けて三番目、観音埼灯台から始まり7番目の西洋式灯台として、1871年3月1日に剱埼灯台が点灯しました。

※当時の光源はこのようなレンズではなく、レンズと反射鏡を組合せたものを複数使っていました。大きさや形状は中華鍋に似たものです。それを3個ずつ7面に、合計で21個取付けたものを回転させていました。光源は石油ランプでした。

 

3.二代目 剱埼灯台

初代剱埼灯台の点灯から52年後の1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で大きな被害を受けます。

倒壊は免れましたが、一部の石材は崩落してしまい、修繕は難しい状態だったので、再建されることになりました。

そして約2年後の1925年(大正14年)7月1にコンクリート造りで完成したのが、この灯台です。

みなさんの目の前にあるレンズは、その時に導入されたものです。

※関東大震災では、この付近では6メートルの津波が押し寄せたと記録が残っています。

※この時に二代目だった観音埼灯台は大きく傾いたために取り壊し。

煉瓦造りだった野島埼灯台と城ケ島灯台は文字通りに倒壊しました。

※剱埼灯台も含めてこれらの灯台はすべてコンクリートで再建される事になり、観音埼灯台が1925年(大正14年)6月1日、剱埼灯台が7月1日、野島埼灯台が8月15日、翌1926年(大正15年)8月1日に城ケ島灯台が再建されました。

※剱埼灯台の構内には大正天皇のお妃様の貞明皇后(皇太后)さまが行啓された記念碑が建っています。1941年(昭和16年)6月7日午前11時に貞明皇后様が剱埼灯台を行啓されました。貞明皇后さまは社会福祉活動に熱心に取り組まれた方で、当時たいへんめずらしく貴重だったラジオを各地の灯台に贈りました。この”恩賜のラジオ”は、野島埼灯台の資料展示室に1台、NHK博物館に2台収蔵されています。

 

4.第二等閃光レンズ

では次にレンズについて説明します。

このレンズは第二等閃光レンズと言います。

第二等と言うのは、灯台のレンズの中で、2番目に大きい種類です。

その大きさは何で決まっているかと言いうと、レンズの焦点距離です。

※焦点距離を簡単に説明すると、光源とレンズの距離と考えてください。焦点距離が短いと光源とレンズの距離も短くなるので、レンズ全体が小さくなります。

逆に焦点距離が長くなると光源とレンズの距離も長くなるため、レンズが大きくなります。

一番大きな第一等レンズは焦点距離が92センチメートルです。

このレンズは第二等で焦点距離が70センチメートルです。

 

現在、全国で約3,100基の灯台がありますが、第一等レンズは5基しかありません。

では第二等はもっとたくさんあるかと言うと、これも5基しかありません。

※第一等レンズは、千葉県の犬吠埼灯台、京都府の経ケ岬灯台、島根県の出雲日御碕灯台、山口県の角島灯台、そして高知県の室戸岬灯台です。

※第二等レンズは青森県の尻屋埼灯台、宮城県の金華山灯台、千葉県の野島埼灯台、和歌山県の樫野埼灯台、そして神奈川県の剱埼灯台です。禄剛埼灯台も第二等レンズでしたが、2024年1月1日の能登半島地震で損壊して、取外されました。

 

ではレンズをご覧ください。

一方にひとつの大きなレンズがあり、もう一方に少し小ぶりの二つのレンズが二つ並んでいて、合計で3つのレンズで構成されます。

大きい方のレンズの直径は2.6メートル(金枠の直径)、高さは2.4メートル(金枠の高さ)あります。

※剱埼灯台のレンズ(ガラス部)の最外径は約2.4メートル、高さは約2.3メートル。

※剱埼灯台のレンズの上帯は14輪帯、室戸岬灯台の上帯は12輪帯、沖ノ島灯台の旧レンズは18輪帯などと、レンズの設計思想によって構成は変わる。直径や高さも様々。

 

そして中の中央に光源があります。

光源はこれまでメタルハライドランプを使っていましたが、生産中止などで入手性が悪くなったことから、今年の2月にLEDに変更になりました。レンズはそのままで光源にLEDを導入したのは大型の灯台では全国で初めてです。

大きなレンズの近くには緑色のフィルターがあります。したがって大きなレンズからは緑の光が出て、もう一方からは白い光が出ます。

これ全体が30秒に1回転しますので、離れた所から見ると30秒の内に、緑の光が1回と白い光が2回見える事になります。このような光り方を複合群閃光と言います。

※綠<12.5秒>白<5秒>白<12.5秒>綠<12.5秒>白<5秒>白<12.5秒>綠・・・・・・・・

※近くにある灯台は、それぞれの灯質を変える事で、どこの灯台なのか区別できるようになっています。

例えば横須賀の観音埼灯台は15秒に白い光が2回光ります。城ケ島灯台では15秒に白い光が1回光ります。

このレンズは横浜標識製作所と言う会社が製作したものです。

それまで海外製のレンズを輸入していましたが、日本の会社が小さなレンズから手掛けるようになります。

1918年(大正7年)に横浜標識製作所が設立、1919年に日本光機工業(株)が設立、1920年に飯田光機工業が設立されてそれぞれ灯台用のレンズ生産に取り掛り、徐々に大型のレンズを生産するようになります。

・1920年12月16日 白石灯標(現:安芸白石灯標)

  第五等閃光レンズ(飯田光機工業?)

・1921年2月16日 西ノゴバン灯標(現:西五番之砠灯標)

  第五等閃光レンズ(飯田光機工業?)

・1921年3月28日 クダコ島灯台

  第五等不動レンズ(横浜標識製作所)

・1921年3月31日 西郷岬灯台

  第四等群閃光レンズ(日本光機工業)

・1921年12月 沖ノ島灯台

  第一等複合群閃光レンズ(飯田光機工業)

※『燈光』2018年7月・2019年1月号『浜標識製作所と灯台レンズの国産化』より

飯田光機工業は関東大震災の影響もあって1923年に解散。

1923年に関東大震災が発生して再建されることになった剱埼灯台では、それまでの反射鏡から第二等レンズに変更することになり、横浜標識製作所が担当しました。

横浜標識製作所は、日本光機工業と共に国産レンズの普及に貢献しましたが、太平洋戦争の横浜大空襲で工場が被災し、1945年に廃業しました。

 

複合群閃光と言う構成はとても珍しいレンズで、全国で3ケ所だけです。

※現役では、出雲日御碕灯台の第一等レンズと、剱埼灯台の第二等レンズと、愛媛県の高井神島灯台(たかいかみしま)の第五等レンズ。

※出雲日御碕灯台と高井神島灯台のレンズは、どちらもフランス製なので、国産の物は剱埼灯台だけです。

※かつては福岡県の沖ノ島灯台で飯田光機工業が製造した第一等の複合群閃光レンズがありましたが、2007年に退役して、現在は犬吠埼灯台の資料展示室で展示されています。

もう一つ剱埼灯台で特徴的なのが、緑色の光を使っている事です。

なぜ剱埼灯台は緑色なのでしょうか。

みなさんは、太平洋と東京湾の境界線をご存知でしょうか。

それは、この剱埼灯台と千葉県館山市の洲埼灯台を結んだ線が、境界となっています。

日本において港の防波堤にある灯台は、左側が緑、右側が赤色と決められています。

そこで、太平洋から東京湾を港に見立てると、剱埼灯台が左側に位置するので、緑色の光を使っているのです。対岸の洲埼灯台は赤色の光を使っています。

※1941年(昭和16年) 6月7日に貞明皇太后の剱埼灯台行啓の際、灯台局工務課の森田冨士助工務課長が『茲(ここ)に特に綠の光を發する閃交光を使用致して居りまするのは房州洲ノ埼燈臺と相對し東京灣の左舷に當りますので、我邦で決めて居ります燈臺の様式に從ひ右は赤、左は

白又は綠の光を使用致してゐるのであります。』とご説明している。

剱埼灯台はあまり一般には知られていませんが、とても重要で、とても希少な灯台なのです。

 

5.初代 剱埼灯台の欠片

最後に、関東大震災の被害により取り壊された初代の剱埼灯台ですが、その一部を今でも見る事が出来ます。

一つは、記念額です。記念額とは、灯台が出来上がって点灯を始めた年月日を記したプレートの事ですが、この灯台の東側(東京湾側)に初代の剱埼灯台の記念額が埋め込まれています。1871年に点灯を開始した日付が、西暦と旧暦で刻まれています。反対側の陸地側には、この二代目の再建された日が刻まれた記念額があります。

もう一つ初代の一部ですが、みなさんがこの灯台に来る手前の参道が石畳だったのを覚えているでしょうか。その石畳は初代の剱埼灯台や灯台守の住居で使われていた伊豆石で出来ています。

そして皆さんがお帰りの際に、構内を出てすぐの右側の石垣をよぉーくご覧になってください。僅かに膨らんだ曲線を描いた石材が幾つもあります。それは初代剱埼灯台の丸い塔の部分だった石材で造られています。

 

これで説明を終わります。

ありがとうございました。

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長々とすみません💦

 

では、また✋