「生きる意味」とはつまり、「生き抜くこと」である。
不可避的に訪れる死を前にして、人生を振り返り、納得して笑顔をもって死ねたなら、
この人生に意味を持たせ、「生き抜く」ことができたと思えるのではないかと思う。
そのためには、自分の人生観・価値観というものを決して他者の評価・判断に委ねるのではなく、
確固たる価値軸を持って生きることが必要だと思う。
その前提には知識と経験が必要であり、それらを積み重ねることで価値観を築き、
そしてそれらと対峙する中で価値観を篩いにかけていく必要がある。
人は生きる中で多くの事物・人物に触れ、その中でいろいろなことを感じ、
触発されて生きていくはずである。だからこそ、それらの出会いの総量を可能な限り増やし、
そしてそれら全ての場面での経験を満足に変えていくことが、
俺にとって最大の「生きる意味」なのだと思う。もちろん、その満足が生じるのが
その場その場でなくとも、死に際して「満足」であるならば構わないはずだ。
そして、もう一つ求めたい「意味」として、「仕事」がある。
連綿と続く時間の流れの中に、有限な存在として俺はいる。
しかし、俺の固体としての存在がたとえ有限であろうとも、
この連綿と続く時間の流れの中で、連綿と受け継がれる何かを
俺は自分の手で残したい。
生きることの本質は自由であると思う。常に如何なる場面であろうとも、
どのような外的な制約があろうとも、究極的な自己の行動の決定権は自分のたもとにある。
しかし、社会や組織で生きるためには全ての自由を行使することは不可能である。
構成員同士の利害の衝突・闘争を避けるためには、個々人の自由を部分的に放棄する必要が生じる。
つまり、逆説的ではあるが、「如何なる自由を放棄するか」ということを自己決定することにこそ、
人生の本質があるのではないかと思う。
「自由」と「自由の部分的放棄」を考える上でも、その幅を広げるのは知識と経験であると思う。
常に自分と周囲の状況を知り、その中で可能な選択肢の数を多く持てる者ほど自由である。
「生き抜く」ために生きるべく、知識と経験の総量を積み上げ、自分の価値軸を篩いにかけていかなければならいと、今思う。
