動物園や水族館で、実は動物は苦しんでいる、「少し考えればわかることなのに」
動物園や水族館で、実は動物は苦しんでいる、「少し考えればわかることなのに」という感想を下さった方がいらっしゃいました。これは非常に大事なところだと思います。言語化してみます。水族館や動物園を始め家畜なども、動物産業側が①=「あなたちはこう捉えて欲しい」ということと、その裏の②=「無意識」を規定します。人間は、言葉の裏を無意識で捉えるようにできています。③=現実の状況とします。例えば、サーカスやショーの場合①(動物が)みなさんに芸を披露します!(と捉えて欲しい)② 動物が主体的に行なっている(と無意識に捉えている)③ 親や生息域から引き離され、暴力や空腹による過酷な訓練を受けて、食事を得るために、そうせざるを得ない行動を取っている。畜産の場合① 動物が笑顔で肉料理の告知をしている表現(と捉えて欲しい)② 動物が主体的に行なっている(と無意識に捉えている)(ゆえに動物への「感謝」が成立する)③ 動画を見れば明らかですが凄惨で非道極まりないことが行なわれ、その痛みと苦しみと悲しみの結果がテーブルの上にある。ところが、①と②によって、ライフスタイルや嗜好の正当性を”与えられ”、利益を享受したい、奪われたくないと思っているため、③を目の前に提示されそうになるると強い拒否感、あるいは敵意を感じてしまいます。①と②は幻想なのですが、③は見たくない。嗜好の変更や、場合によってはアイデンティティの再形成を求められることを直感的に感じているからだと思います。ゆえに、押し付けてはいけない、多様性、感謝といった言葉で、危機回避行動に出るわけです。もしかしたら、事実を伝える、かつ、ケアも必要なのかもしれません。動物の現実を見ることは、ある種の死、それまでの自我の死、を迎えることに近いような気がしています。現実を知った後の過程は、死の受容のフロー、悲嘆(グリーフ)システムにそっくりです。https://sites.google.com/site/icharibadance/griefwork/4-bei-tan-gurifu-nopurosesugrief-process