私自身、ずっと考えていました。

 こう魂のレベルが上がったとかどうだとかよくわかんないし、それを証明する術もないし。

でも、自分が確実に何かが変わったって実感があるのです。

 例えば、私が嫁とのやり取りをブログという形でこんな違いがある。学びがあったひらめき電球

ということを書いていても、

客観的に見たら、不平や文句を言っているというコメントを頂いたことがありました。

私、自身

「なんでだろう?」とか

探究心のつもりで書いていたのですが…

どうやら違ったみたいなんです。
それが今の私と今までの私の大きな違いなんです。

 その

なんで?って思っている自分には明らかに自分は〝正しい〟という考えが内包されていたんだと思います。

つまり、ふつーならこうなのにとか常識的にはこうなのにとか一般的には…

と。そもそもその杓子定規は合っているの?って。

 だから、疑問に思うこと自体が相手を色眼鏡でみていることであったということです。

 つまり、私の思考過程そのものが眼鏡のレンズのようであり、事象そのものをみて、おかしいとか正しいとか勝手にジャッジしてたのです。

 そもそも、自然状態において現にその形(状況)になっている事実に対してじゃあ何ができるの?ってことになるんです。それこそタラ・レバなんです。

 だからって、問題が起こっているのに目を瞑りましょうって言っているのではないのです。

 例えば、

娘のことであれば、まともに働けるかどうかわかりません。

だからといって、私が娘の代わりにバイトに行ってやるとか、首に縄をつけて引っ張っていくとか、言葉で屈服させて脅迫紛いに出ていくか働くか選べと言う必要はないんです。

 それは、娘の問題なんで働けるって信じるよって思うだけでいいんです。

 コイツ無理やろ?って

自分の思考を、変えた。変わった。

他人を変えれないんです。それで、自分が変わった。

 問題を問題と思わなくなったら

その波長が伝わるのか、勝手に娘は娘で機嫌よく働くんです。

だって、そこに承認があり、目には見えなくても伝わってるから。

 この理屈でいくと

ぶっちゃけすべて自分軸で生きられるんです。

他の例を挙げると

 いつも嫁が使った体重計を片付けず、脱衣所に出しっぱなしでよく足をぶつけて私はイライラしていました。

 でも、今は

気づいたら私が片付けたらいいや。って思っています。

出したものは片付けなさいって言うのは社会通念や常識かもしれないけれど出来ない人がいる事はそんなに問題ですか?

そもそも、2、3秒で片付くところを腹立つわ〜。何とか自分の正当性を示すために屈服させ、片付けを自分でさせてやろう!

なんて考える時間と労力の方が無駄じゃないですか?

それが一回でできたらいいですよ。

何十回も何年もかけて、たかだか一個のことを教えるのに向き合います?

だったら私が変わって

私が相手のためにやってあげたらいい、行動を変えたらいいのです。そうしたら自分も足をぶつけなくて済む。いいことばかりです。

そうなってくるとある種の瞑想状態です。

今、目の前のできることをやるだけなんです。
今に対して、不平・不満・愚痴・文句なんてな〜んにもなくなる。

できなかったら、やらないってのも一つの選択肢です。

 今まで書いていたブログが、結局は学びのようなつもりだったけれど…

そうじゃないんです。自分という物差しで、ジャッジしたり批判していたということに気がついてしまった。

そこが変わってしまって、

私にはいろんな事象が

「あー、そんなこともあるよね〜」みたいな
「あってもいいよね〜」と。

一種の悟りのような状態になってしまい、クリアなはずなんだけど無味乾燥なものに感じてしまうんです。草花が生えるように自然で、そのひとつひとつに違いがあるけど、だからどうしたの?といったような感じ。わかるかなぁ〜?たぶん、わからんだろうなぁ。

今後は、だらだらと今までみたいなことを書いてもつまらないし、そもそも書けなくなってしまっていると思うのです。
だってみんな違うもん。興味ある?私は、あんまり興味湧かないかな(笑)違いがあっていいじゃん。それでおしまい。それを表現するのが得意な人が居る中で自分がする必要ないかなってにやりそれが楽をするための言い訳だと他人に言われても「あなたに何か迷惑かけましたか?」って思ってしまう。

 そんなこともあってか、なんか、ものっすごい勢いで本とかからも学ぶ気というか興味もなくなってしまって困ってたんだけど(笑)私は私のままでいいし、たぶん、どんなことがあっても苦難とか苦労とは思わないと思うしあせる

きっと自分の成長のために勉強とかやらなきゃならないことはするだろうし。

 ただ、ブログは事実のみを書いた3行日記になりそう真顔

今日は

〇〇という本を読んだ。

〇〇と思った。

おしまい。

みたいな。先日、友人と行った飲み屋のマスターが上手に表現してくれていましたが

「頭の上から、自分の行いを俯瞰している感覚で物事を捉えている」とかいってましたが…

これ

 スピリチュアル的に言ったら、ハイヤーセルフ(真自我)とか守護霊とか言ってるやつと同じ表現だったんですよアセアセだからめちゃくちゃゾワっときました。

 自分の中に答えがある。という言葉をよく言いますが、それは自分でも知覚できない無意識のうちにあるのかもしれない。無意識を、自分のこれまで生きてきた経験や学んできた経験が人格を作り膜のように自分を包み込んでいるのではないでしょうか?

だから、直感に従え!みたいな時もよくありますが…

結局あれも無意識に答えがあったんでしょうね。

まとめると、自分とこの世界にある区切りというか境い目というかそんな境界に気付いてしまったんでしょうね。

そう思うと自分が異次元空間の人や、異邦人のように感じてしまいます。

正しいか、正しくないか?そんな二元論で解決する必要性すらなくなって…

ただ、いろんな事象が横たわっているだけだとそこで完結するのです。