なぜ俺は友人間で「ありがとう」と「ごめんなさい」を言えないのか、考えてみた。
仕事でとか、目上の人にとか、距離のある人になら別にぜんぜん言えるし、むしろ丁寧すぎるぐらいだ。
言っていて心地よい。
もっとも、「ごめんなさい」はよっぽどのことがないと言えてないかもしれない。
「すみません」とか「申し訳ございません」「恐縮です」だったら大丈夫だけど。
俺が「ごめんなさい」と言う時は、本心から自分が悪いと思っていて、なおかつ、言わないと人格を全否定されるような時だけだ。
俺がごめんなさいと言ったことのあるリア友とは、俺は絶交してしまった。そのぐらいだ。
それは、そいつが切ってきたというわけではなく、俺のほうが勝手に思いつめて
「こんな状況になるぐらい俺のことを追い詰めてくるこの人とは、もう友達ではいられない」と思ったからだ。
だから、俺を友人だと思っている人は、俺に「ごめんなさい」を言わせるような状況にまで追い詰めないでほしい。「悪いね」ぐらいなら問題なく言えるけれども、
「ごめんなさい」レベルまでの深刻さになると、むしろ、言葉で謝ってどうにかなるレベルでないと思うので、
無言になる。無言になったほうが、俺は真剣だ。反省している。
無言で、埋め合わせができるのならするし、できなかったら、俺が静かに自粛していると思う。
また、俺は、人に謝られるのも嫌いだ。
人を追い詰めたくないのは勿論そうだし、
また、謝っておけばとりあえず大丈夫みたいな考え方が逆に許せない。
口で謝ってチャラになるぐらいなら謝る必要がないし、謝って済まないようなことなら、無言で埋め合わせてくれと思う。
つまり、自分がしようと思う態度を、同じように相手にもあてはめているから。平等だ。
また、別にそういう基準をあからさまに押し付けることもしない。
ただ、俺の中で悲しんだり、もやもやしたりするだけのことだ。
「ありがとう」についても、そんなに、言ってほしいと思わない。
素直にそう思ってるのだったらもちろん言ってくれてうれしいけど、
「こっちがありがとうって言ってんのにどうしてそっちは言わないの」とか微塵でも思われるようだったら、
むしろ、こっちから「ありがとう」を禁句にさせてほしいぐらいだ。
俺にとって、友人間の「ありがとう」は、往々にして、大げさだし、逆に、ありきたりすぎて微妙に思えてしまう。
ちょっと何かしたぐらいでいちいち言わなくていい。なごやかな雰囲気を出してくれればいい。
また、本当に感謝したなら、言葉よりも、表情とか、態度とか、行動で示してもらったほうがずっと理解できる。
もっとも、気軽にさわやかに、ほのぼのと言ってくれるぶんには、いいな、と思うけど、
俺の側が気軽でもさわやかでもないことが多いので、同じように言い返してあげることはできない。
思ってもいないことを、心のこもっていない表情で言うほうが、ずっと、不誠実だ。
たぶん、礼儀として「ありがとう」「ごめんなさい」を強制的に言わされたことがいまだにひっかかっていて、
真心を伝える手段だと思えなくなってしまっている気がする。すくなくとも親しい人の間では。
俺は基本的に無言でさりげなくする。本当に心の底から感謝・謝罪しているなら、言葉で済ませたりしない。
だから、いわゆる「悪くても謝らない国の人」とかが、うらやましいというか、むしろそのぐらいでいい気すらしてしまう。
まだそんなに親しくなっていない韓国人の友人に、ありがとうと言ったら、
「なんで?わざわざ言わなくていいんだよ」と言われて、なんだかとてもほっとしたのを覚えている。
ありきたりな言葉を言わないぐらいで駄目になる関係なんて本当の友情だとは思えないし、
逆に、おたがい心にわだかまりがないぐらいいい関係なら、言葉なんてもはや重要じゃないはず。

