あっ、と驚く結末で、しかし私は初見の時シーアン先生が登場してもチャックが洗脳されていると思ってたくらいまんまと引っ掛かってた口でして・・・さらにどんでん返しがあるんだろうなんて思ってましたが・・・

 

事の真相は、3人の我が子を殺害(溺死)させた妻を衝動的に撃ち殺してしまった元保安官(刑事)のアンドリューは、その事実を受け入れられず妄想の世界に閉じこもってしまう。

その妄想は「自分は刑事でこの施設に来ているのはとある事件の調査の為」というもので、巧妙且つ堅固に構築されているものの、何かのきっかけで真相に直面しそうになると防衛本能から逆上、狂暴化してしまい暴力沙汰に及ぶという側面を伴っていた。

戦争従軍経験者でもあり、然るべき訓練を受けた元刑事が狂暴になれば手の施しようも無く、2週間前にジョージ・ノイスという患者に重傷を負わせるという事件を起こしてしまう。

みかねた施設側により彼に対して何かしらの処置を施す事が決定され、これまで採られていた薬物による鎮静化と依存による従順では効果が薄いと見られた事もあり、最後の手段として外科手術(ロボトミー手術)による処置が選択されようとする中、薬物処方や外科処置に懐疑的な医院長のコーリーと主治医であるシーアン先生は、何とか理事たちを説得し、アンドリューの正気を取り戻す為の新たな試みを行う最後のチャンスを獲得する。それはアンドリューの妄想にあえて付き合い、その言説を肯定しながらも矛盾や破綻を示しつつ、また、決定的な証拠を突きつけることで内面から正しい方向へと軌道修正していくというものであった・・・

と、冒頭でこういう経緯が解っていても鑑賞に堪える映画だと思います。

というか、長々とあらすじ書かずにこれだけ書いても良かったですね(汗)

 

で、上記を踏まえていろいろ考察してみましょう。

 

冒頭の船。天井からの手錠(手枷)はこの島に連れてこられる人の中には狂暴な人も居るのでその為の拘束器具だったんですね。もしかするとアンドリューもされてたかも知れません。

アンドリューの妄想では嵐が起こる必要があります。なので計画の実行にはそういう天候の予兆があった日に決行されたのでしょう。なかなか手間暇かかってます。

警備隊連中の不自然な感じも、看護師や職員たちの不審な様子も、まあ、茶番に付き合わされていると思えば納得です。そういう意味ではあの副隊長は頑張って演じてくれた方だと。シーアン先生の銃の扱いが下手くそだったのは演技だったのか素だったのか・・・おそらく素でしょう。

「フェンスに電流が流れている。前にもこういうのを見たことがある」とテディ(アンドリュー)が言いますが、それも当然、彼はここに2年間居たわけで。他にこういう自作自演が無意識に行われているような場面があります。

4つの法則、67は誰のメモ書きを発見するところや、消息を絶った放火犯アンドリューと脱走したレイチェルは既に殺されているかも知れない・・・的な感じでの墓地の発見など。

 

テディ(便宜上ここではテディとします)の妄想中にある事件は3つに分けられそうです。

〇レイチェルの失踪事件

〇アンドリューによる放火事件(自分の過去に結びついている。妻を殺された)

〇ノイスの施設陰謀事件

これらについて、一つづつ考えてみようと思います。

 

〇レイチェルの失踪事件について

この事件がテディにとってどういう位置づけになるのかというと、あまり重要なポジションを占めているとは言えないと考えられます。それはこの事件が島(病院施設)への侵入の口実に過ぎないからです。捜査中の施設内職員たちの不審な態度は、なるほど事件の不審感にもつながりますが、それが果たして失踪事件そのものに対するものなのか、その背後にある陰謀(とテディが思っているもの)に対するものなのかはっきりしません。途中から焦点が陰謀に移るので曖昧なままです。一体、施設側は何を隠したいのか?何が嘘なのか?隠蔽したいのか?それとも普通の事件にしたいのか?しかし知らされるものは「ありえない状況」ばかり・・・そして、テディもそれについては執着を持ちません。ただ「怪しい」と感じるだけです。この失踪事件はただ「自分が島に居る(侵入する)理由」として機能すれば良く、その他の細かい疑問点は「不要なもの」という扱いでしかありません。

密室から出られた方法は?裸足で行動できたのは?どこに隠れているのか?と言った事には無頓着で、レイチェルが見つかった後もその姿勢は変わりません。隠れていた場所や動機と言ったことは妄想の筋には直接関係ないので靄がかかった状態です。はっきり言って「どうでもいい」といった感じです。

事の真相を知ってしまえば、なぜ「どうでもいい」のかが解りますが、初見ではずーっとモヤモヤします。

ところが、さらに突っ込んでテディの深層心理を考えてみると、上記とは違う面が見えてきます。

レイチェル・ソランドというのはテディが妄想の中で作り上げた架空の人物ですが、その名前はテディの妻、ドロレス・シャナルのアナグラム(綴り入れ替え)になっています。

テディは妻ドロレスが愛する我が子3人を溺死させたという事実と、その妻を自分が殺害してしまった事実、またそういう妻を追い詰めたのが他ならぬ自分であるという積み重なった因果に耐え切れず、家族を一気に失った悲しみと罪の意識から逃れる為に記憶の改ざんを無意識におこないます。優秀な外科医が患部を切除するような感じで自分の中の妻の記憶を「受け入れられる物」と「受け入れられない物」に切り分け、「受け入れられる物」はそのままドロレスに、「受け入れられない物」はレイチェル・ソランドという受け皿を創作して割り振りました。そしてドロレスとレイチェルの連続性を断つ為に「妻の焼死」という偽の記憶を膏薬として切開面に塗り込んだのです。上手く切除されたレイチェル・ソランドはこうしてテディとは直接関わり合いのない単なる失踪事件の当事者という役回りになったわけですが、言い換えればテディが最も遠ざけたい真実であるが故に、逆に「どうでもいい」という他愛のないポジションに無意識(潜在意識では故意に)に落とし込んだと言えるのではないかと推測できます。

とは言え、なんだか言ってる事が二転三転して申し訳ないのですが、果たしてそう上手くできたのでしょうか?

最も消し去りたい部分であるがゆえに、まったく歯牙にもかけないような部分に転換されたように見えますし、実際にそういう風に仕上がったようにも感じますが・・・それでもレイチェル失踪事件には、さらに根底にある「何か?」は無いのだろうか?

「どうでもいい」という仕上がりになってるわりには、結局、後半までレイチェル探しは続いています。レイチェルという存在はテディにとって、最も必要な存在(ドロレスの負の部分を担わせる為)であり、また、最も封印しておきたい存在です。この相反する性質ゆえか、映画内でも存在するのかしないのか?生きているのか死んでいるのか?本物なのか偽物なのか?という掴みどころのない存在として描かれており、こうなると何か象徴的な意味を感じずにはいられません。そこで重要になってくるのが「もう一人のレイチェル」の存在です。

このもう一人のレイチェルとは、妻によって溺死させられた3人の子どものうちの末っ子で、奇しくも(深層では判っていて)失踪したレイチェルと同じ名前の女の子でした。映画では後半まで明かされません。医院長やシーアン先生にとっての最後の切り札だったからでしょう。

この3人の子どもたちの存在は「妻による子殺し」に直結するタブーの一つです。テディはその一切合切をレイチェル・ソランドに背負わせて切り離し、その結果「妻はもっと前に焼死し、自分には子どもは居ない」という偽りの記憶で偽りの心の安定を取り戻しますが、ここに大きな葛藤が生じます。

「愛する家族を失った悲しみを消す為に愛する家族の存在そのものを消す」

悲しむ理由を消し去ったので悲しみは消えたけど、愛する家族も消失・・・その悲しみは?

コーリー医院長が「かつて、この子が存在した事すら否定してしまうのか?」と写真を突きつけますが、そんな事テディができるはずも無く・・・すべてを思い出すテディ。

レイチェルというのはテディの深層心理で起きた葛藤を象徴する存在、だからテディは失踪したレイチェルを捜査する為(探す為)にこの島にやってきたのだろう。

 

と、レイチェル失踪事件がテディ(アンドリュー)の心理に落とす影を勝手に想像してみました。

では今度は、コーリー医院長やシーアン先生側から見たレイチェル失踪事件について考えてみます。

 

そもそもレイチェル・ソランドという人物の厚みというか肉付けについては、どこまでがテディによる創作で、どこからが医院長たちによる肉付けになるのでしょうか?

レイチェルとドロレスの人物像は、乖離が大きければ大きいだけ結びつきが弱くなり、テディが受け入れがたい記憶を遠ざける為には好都合となるのですが、逆に乖離しすぎると負のドロレスの受け皿として機能しなくなるという相反するものだと考えられます。

これがテディ一人の内々の問題であった場合は、テディはそれを「考えない事」でやり過ごす事が出来ます。ただ漠然と「レイチェルという人物が失踪した」という事だけを見て居ればいいのですが、ここに第三者の客観的観測が伴ってくるとそうもいかなくなります。

コーリー医院長やシーアン先生は当然としてレイチェルの詳細な情報をテディから聞き出そうとしたことでしょう。しかし、テディの方こそ、そのレイチェル・ソランドが失踪したから捜査しに来たわけで(妄想上)、「おたくら病院関係者の方がご存じでしょ?」なんていうチグハグな事にもなっていたと想像できます。ここで一つキーになるのがテディの捜査状況です。先に言ってしまうと、失踪事件もレディスの事も陰謀の話も、テディにとっては永遠に捜査中で解決しないことに意味があります。テディはこの施設に来て2年のあいだ、ずーっと捜査をしていたわけですが、額面通り2年間の継続捜査と呼べるような状態では無かったはずです。何故なら、何度か現実と向き合うところまで回復したという事実をコーリー医院長が語っているからです。また映画では三日間の出来事に集約されているわけで、おそらく捜査継続中という根本は変わらないとしても、捜査状況は話を聞く都度、数日を経て違ってきたりしていたと考えられ、先生たちはそれを根気よく聞きだし、他の患者との会話なども参考にしてある程度の全体像を把握していったのではないかと推測できます。おそらくそのような状況下で触れられたくないタブーを侵されることが何度かあり、その際にはテディが我を忘れて狂暴化するという事も発生していたのでしょう(その最後がジョージ・ノイス暴行事件)。

さて、そんな苦労を経て形成されていったレイチェル像ですが、テディは表面上は常にその像から目を逸らすので覚えていない事になります。

その表れがコーリー医院長によるレイチェルの詳細(我が子三人の殺害)を知らされた時の違和感や頭痛といったものの正体になります。伏線回収です。チクリチクリとテディの、というかレディスの本来の記憶を突っついたわけです。中世の拷問の水責めの話にも同じような含みが持たされていました。レイチェルの写真を見た時も同じです。テディはレイチェルを知りません。知りませんが、深層心理ではこれはレイチェルでは無いという事を知っています。もっと突っ込めばレイチェルはドロレスの顔を持っている可能性もあります(かといって、あそこで写真をドロレスのものにしてしまうと、核心に近すぎて逆に閉ざされてしまう可能性の方が高いと思われ)。そういった心の奥底で生じた混乱が体調不良となって表れてきたわけです。そして、これこそが医院長やシーアン先生の狙いでもあり、混乱したテディ(アンドリュー)がどうなるか判らないという危険性をはらんでいるけれども、こういう荒療治で頭の中(机上)だけでなく体験的に矛盾を味あわせて治療を試みる。この茶番劇はそういう初めての試みであったわけです。

 

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