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子供との日々で

子供4人と私だけの暮らしが始まってはや1年がすぎました。

いろんな道を試行錯誤して住む場所は変わらずとも暮らしぶりにも変化がありつつ

子供たちも私も一生懸命新しい道を歩んでいます。

私も今はジャングルを鉈で切り開きながら自分の道を切り開いているような感じがします。

子供たちは、いやがおうでもその私つくった道の後ろをついていくしかないのです。

ふと横を見るとそこには歩まれるはずだったまっさらな歩道が見えるのかもしれませんが

けれど、やっぱり歩みは道なき新しい道へとすすんでいます。

子供にとって、それはどのような体験なんだろう。

私にはこの道を行くという事が一番だという根拠のない、しかし確かな感覚しか在りません。



昨日の朝次女と大喧嘩をしました。

というか、私がすっごい怒ったの。

私は私の思いをわかってほしかったし、次女は次女で自分の感情を行動にしたかった。

あまりの怒りっぷりに、私自身その最中で

「この怒りはどこからきてるんだろう?今すんごい怒ってるけど、やめた方が良いよな。」

と傍観し自問する姿が在りました。

が、まだまだ未熟者の私にはそれでも怒りをやり過ごすには不十分でした。

そのあとの嫌な感じ。

あたらためて思うのは、怒りは在ります。それはそれでいい。が。それを表現したあとは

やっぱり悲しくなります。それは私個人の経験ですが。


でもそれを解消する方法もあります。


そのあと、しばらくして、私はとにかく次女を膝に抱いて、自分の気持ちを伝えました。

私はこうおもってる。叱ったり、怒ったりしてもそれはあなたの事を嫌いという事では

決してないのだと。そして、怒りすぎてごめんねって謝りました。

意外とこの「ごめんね」を言葉にするのは特に子供に向かってするのはとても難しい事では

ないかと思います。

でもそれをいったあとお互いの心がほぐれていくのがわかるほど、「ごめんね」

の力は大きいのだといつも思い知ります。

うちの場合、この一部始終をほとんどの場合兄弟4人がともに経験せざるを得ないので

叱られた本人以上に周りでそれを見ている子供たちの心のドキドキや不安を感じます。

昨日もこの結末を案じる3人の子供たちが在りました。

けれど、ちゃんと最後にお互いに和解し、抱き合って、この件を終わらせる事ができたのを見ると

それは手に取るように、3人のドキドキが消えていったのがわかりました。


どんなに良い母であろう、としても

時には間違えも起こすし、感情の大きさに翻弄させられる事も在りますよね。

それが人間で、それが私だと思うんです。

でも最後までしっかりとその感情に向き合って、終えることができたらそれはきちんと

消化されていく物ではないかと思います。

願わくば、痛みのない、悪のない、良きもの、穏やかなモノだけの中で、天国のような

日々を生きたいと願います。

けれど大事なのは、天国のような場所にいることではなくて、不完全で、未熟なこの世に生きる

自分の中にその天国を見いだす事ではないかと思います。

痛みや、悪を排除し、さけるのではなく。抱く事だと思います。

痛みはゆっくりと何かを運んでくるでしょうし、悪によって光がみえてくることもあるのだから。


昨日の私の体験は、子供に読み聞かせる昔話と同じような感覚がありました。

子供に鬼の話しや鬼婆の話しなど怖い日本の昔話をすることがあります。

「殺した」とか「死んだ」とか嫌なフレーズも出てきます。

でも子供はその言葉自体を受け取る事は実際あまり無いんです。むしろ悪いもの、怖い物が

どのようになっていくのか、その物語の持つ本質に全ての感覚が注がれています。

どんなに恐ろしい言葉や話しや人物が出てきてドキドキしても、最後には鬼は退治され

もしくは心を入れ替えます。

そうしてお話を閉じた時、子供は「桃太郎」の中から、あるいは「3枚のおふだ」から

言葉を超えて、ストーリーを超えて、より本質の何かを体験していると思います。

そのとき全ての感情も悪も善も子供たちの中でそれぞれのやり方で消化されいっているように

思います。

それこそがきっと国を超えて世代を超えて今なお昔話が語り継がれるゆえんではないかと思います。

そこに人間という物の本質さえ見て取れる気がします。


自分の中の鬼とどう向き合うのか。

自分の中の天国にどうつながるのか。

子供との暮らしのかなでは時に赤裸々にそれを目の当たりにすることがあるものです。

それこそが私の人生の先生であるように思います。


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