今日、仕事の帰りに最寄駅付近にある床屋に寄った。
別にそこまで伸びてるわけでもないし、いつもだったらこのくらいの長さじゃまだ切らないけど、最近急激に暑さが増したのもあって、急に切りたくなったのだ。
帰りに床屋に寄ることを決めたのは今朝だった。どうせなら思い切って短髪に挑戦してみようという気持ちになったのも今朝だ。
いつもなら絶対に思わない。昔一回短髪にしたことがある。就職に苦戦していた時だ。もしかして自分が落ち続けているのは見た目のせいなんじゃないか?と疑念が生まれ、慌てて床屋に駆け込んだのだった。
結果、なんか小学生みたいになった。
休日の深夜にTシャツ短パンでコンビニへ歩いていたら道中で警察に声をかけられ(マジでビビった)、なんとか辿り着いたコンビニでは年齢確認をされた。かなりの屈辱だった。
まぁその後すぐに今の会社に内定をもらえたからよかったんだけど。似合わないし学生に間違われるし内定報告をした鮫島に祝われるよりも先に笑われるし、もう散々だった。
その時、もう今後一生断じて短髪にはしないと心に誓った。
はずなのに!
この暑さの前では、人はバカになる。近年の日本の夏の暑さは人が黒歴史を乗り越えて得た教訓すら曖昧にしてしまうレベルの異常さなのだ。
布団の中で短髪にすることを決意してからの一日は驚きと発見に満ちていた。
まず、朝、鏡の前でワックスでいつも通り前髪を固めているとき。短髪にすればこの手間も省けるのか思うと小躍りしたくなった。
通勤中、満員電車で人の波に押しつぶされて額に大量の汗をかきながらじっと身を縮めているとき。短髪にすれば額にかく汗の量も著しく減るだろうし体感温度も多少は下がるだろうと思うと小躍りしたくなった。
その後も僕は、短髪にすることのメリットを発見し続け、会社を出る頃には「なぜ今まで短髪にしなかったんだろう」とまで思うようになっていた。一種の躁状態だ。自己啓発セミナー帰り・または流行りのサウナで「ととのった」人のように、瞳が奇妙な感じにぎらついていたに違いない。
その足で向かった床屋で、僕は今、美容師に渡されたipadで雑誌を読んでいる。
今、店には3人しかいない。僕と、僕の隣に座っている白髪のおじいさんと、もじゃもじゃの美容師。
美容師は10分くらい前からおじいさんにつきっきりだ。同時並行でやっているらしい。僕は普段からオーラがないと言われるし、もしかしたらこのまま存在ごと忘れ去られて、もじゃもじゃが照明を落とした真っ暗な美容室でipadの光だけを頼りに夜を明かすことになるのかもしれない。いや、忘れてますって言えよ想像の僕。
「あ、お時間大丈夫ですか?すみませんね、一人で回してて」
突然鏡の中のもじゃもじゃに声をかけられたのでびっくりした。よかった、忘れられてなかった。
全然大丈夫ですよーと持ち前の営業スマイルで答えつつ、できれば早く帰りたいなと思う。でもまぁいい。週末だし、ここで普段読まない雑誌でも眺めながらゆっくり過ごすのも悪くないだろう。店内に漂うヒノキ系の香りも割と落ち着く。
おじいさんともじゃもじゃの話す声を聴きながら男性ファッション誌をななめ読みしていると、ふと視界に引っかかるものがあった。
モデルが手に持っている3冊の本のうち1冊。濃いオレンジ色の単行本。腕の隙間から見覚えのある表紙が少しだけ見え、しばらく頭をめぐらせたのち、その正体に思い当たった。
これ、鮫島の新刊だ。
先月発売したミステリー小説で、発売日に書店で買って通勤時間で読み切り、鮫島に感想を送った。営業の世界で生きている人間の常識だ。鮫島のことなので内容はぎっしりでテーマも重いのに文体が渇き切っていて、それが余計に登場人物たちの不甲斐なさや滑稽さを炙り出していてさすがだった。
髭の生えたもじゃもじゃのモデルがそんな鮫島の新刊を手に、書店と思しき店の前で格好つけている。
てかなんでサングラスかけてんだよ。書店から出てきた設定なんだろ。はずせ。
内心で悪態をつきつつ、予期せぬ形でこの物語と再会を果たすことが出来たのにはシンプルにアガった。
僕は鏡の前に置いていたスマホに手を伸ばし、雑誌の画面を撮影した。どうせだし報告しとこう。
『鮫島の本でモデルが格好つけてた』
『てかなんでこいつサングラスなんだよ』
自分のツッコミにうっすらニヤつきながらメッセージを入力していると、「すみませんすみません」と横から声が聞こえてきた。そういえばこっちにももじゃもじゃがいたんだった。
「すみませんねーほんと。じゃあ続きやっていきますねー」
髪を切られている鏡の中の自分を見つめながら、仕事としてやっているモデルに『こいつ』は失礼だったかなと反省した。
ネガティブはネガティブを連れてくる。
鮫島からしたら、モデルが持ってるからなんだって話だよな。
最近子供も生まれて忙しそうだし、別にLINEで送るほどのことでもなかったな。
「ありがとうございました〜」
美容師に見送られながら、僕はポケットからスマホを取り出し、LINEを開いた。既読はついていない。今頃家族でご飯だろうか。僕は2件のメッセージと雑誌の写真を送信取り消しした。
スマホをしまって顔を上げると、閉店後の店の鏡に自分の姿が映っていた。
ん?割とサマになってないか?
美容師の腕が良かったんだろうか。
それとも僕の顔つきが少し変化したんだろうか。
もじゃもじゃは信用できない。
誰かが言った。
もじゃもじゃはプライドが高い。
もじゃもじゃは口だけ。
もじゃもじゃは他人を見下している。
付き合ってはいけない3B。バンドマン、美容師、バーテンダー、そしてもじゃもじゃ。
今の僕を見て、改めて考えてみてほしい。本当にそうだろうか?
もじゃもじゃの腕は侮れない。本当は底なしのポテンシャルの持ち主なのだ。世界がそれに気づいていないだけだ。
と、勝ち誇ったような気持ちに酔っていた昨夜の僕をぶん殴りたい。次の日起きて鏡を覗けばそこには大学時代の僕となんら変わらない情けない顔の短髪男がいた。昨夜店の窓に映っていたあの爽やか営業マンはなんだったんだんだろう。
あーなんかもじゃもじゃにしたくなったきた。