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ちなみに142~144の投稿は俺のものではなく、別人のものではあるが、果たして真の意味でこの内容を理解してはいるだろうか?
以後、元芝の発言は紫文字で。
2ちゃんねるより
これらが倫理原則ではあるが、ここではさらに深く詳細を詰めていこう。
このヴェーダンタが私たちの日常生活の中で、つまり都市生活や田舎での生活、
国民生活、さらにあらゆる国々の家庭生活において、実際にどのように実践されて
いるかを見てみる。どこに住もうと、どこに立っていようとも、もし宗教が
人々の助けにならなければ全く役に立たず、ただ選ばれたわずかな人々のため
だけの理論としてとどまるだろう。宗教が人間を救うためには、どのような状況の
人々に対しても、たとえ彼らが自由であれ奴隷であれ、奈落の底にいようと純粋の
極致にいようと、あらゆる場所において同様に等しく人々の助けにならなければ
ならない。ヴェーダンタの本質、宗教、あるいは呼び方はともかく、それはこの偉大な
役割を最大限果たすものである。
自分自身に対する信頼感が、人間にとって最も大きな助けになる。自分自身を
信頼すると言う事が、もっと広く伝えられ実践されるならば、私たちの弊害や災いの
大部分は消え去るだろう。人類の歴史を通じて、優秀な偉人達の人生における原動力が
他の人々よりも優れていたとすれば、それは自分に対する信念だろう。
彼らは素晴らしい存在になるという意識で生まれ、そして偉大になった。
人は地番深い所まで落ち込むと、やがて自暴自棄の道から逸れて、上昇曲線で
自分を信じることを学ぶようになる。しかし、まず最初にそのことを知るべきだろう。
自分自身への信念を得るために、なぜ人はこれらの辛い体験をしなければならないのだろうか?
人間同士の違いは、自分自身に対する信頼感があるかなにかに尽きる。
自分を信頼することができれば、人はどんなことも成すことができる。私は自分の人生の中で
それを経験してきて、そして今も味わっている。さらにその信頼感は年齢を重ねるごとに
ますます強まっている。
自分を信じないものは無神論者だ。古い宗教では神を信じない人間を無神論者と呼んだ。
新しい宗教では自分を信じないものの事を無神論者と呼ぶ。しかし、再度繰り返すが、
ヴェーダンタは同一性を説いており、それは利己的な信頼ではない。あらゆるものを信頼しなさい。
あなたは全てであるのだ。全ては一つであり、自分を愛する事は全てを愛する事を意味しているのだ。
この信頼感によって世界をさらに良くすることができる。私はそう確信している。
「私は自分を知っている」と確かに言う事ができる者こそ最も崇高な人間だ。
自分の枠組みの後ろにまだどれくらいのエネルギーやパワーが、そしてどれ程の強さが潜んでいる
かを知っているだろうか?人間にはそれら全ての力があると言う事を理解していた科学者はいるだろうか?
人類が初めて地球上に現れてから数百万年が経過している。しかし、人間の力はまだほとんど
明らかにされていない。だからこそ、自分が弱いと言ってはならない。
表面的には堕落でも、その背後にはどれ程の可能性が広がっているか知っているか?
人は自分の中にあるその可能性についてほとんど気か付いてはいない。しかし、あなたの背後には
無限の力と幸運の海が広がっているのだ。
「まずこのアートマンを知りなさい。」昼も夜も、自分がその魂であるということに耳を傾けなさい。
その意識があなたの静脈に入り血液全体に行渡り、骨の髄まで染み透るように絶えず繰り返し唱えなさい。
「私は生まれる事も死ぬ事もなく、至上の幸福な存在であり、全知全能で、絶えず輝く魂である」という
意識で全身を満たしなさい。その意識が自分の重要な一部になるまで、常にそう思い描きなさい。
そしてそのことを瞑想しなさい。そうすればやがてそれは現実となる。心からそう語り、心からそのように
行動するようになるだろう。行動が伴ってくる。その意志で自分を満たし、何をするにも常にそのことを
意識して行動しなさい。そうすればまさにその意志の力によってあなたのすべての行動は高められ
転換し、神聖化する。
144 名前:神も仏も名無しさん :2009/10/26(月) 11:29:33 ID:/p67j7XH
もしこの理想が力強ければ思考は絶大な力をもつ。この思考を生活に取り入れて
自分は全能で、偉大で、栄光であるという思いで自分自身を満たしなさい。そうすれば、頭の中の
あらゆる迷信は取り払われ、神に入るだろう。神に入れば、私たちが誕生以来取り囲まれてきたすべての
迷信、自分は弱い、下劣だという考えに影響を受け麻痺することはない。
最も崇高で、最高の真実を人類が達成するためにはもっと楽な道もあったはずだ。しかし人間は
これら全ての道を通り抜けなければならなかったのだ。あなたの後から来る者たちに、その道をさらに
複雑にするべきではない。
これらは時にひどい教えに聞こえるかもしれない。この理論におじけづく人もいるだろう。しかし
現実的な実践を望む者は、まずこの事を理解しなさい。自分に対しても他人に対しても、決して自分が
弱いと言ってはならない。できるだけ良い行いをして、世の中に害を与えてはならない。
自分を卑下して、架空の存在に祈り涙する事が迷信的な行為であると、心の奥底では理解しているはずだ。
これらの祈りが叶えられた事実があれば挙げてみなさい。
すべての答えはあなた自身の心から来ているのだ。頭では幽霊は存在しないと理解しても、暗闇に入った
途端に薄気味悪い感覚を味わうことがあるだろう。それは子供の頃にこれらすべての恐怖感を植えつけられたからである。
社会や世論の恐怖や、友人の憎しみを招く恐怖、慣れ親しんできた迷信を失う恐怖を他の者に教えてはならない。
彼らの指導者になりなさい。宇宙の一体性や自分自身に対する信念についての教え以上に、宗教で伝えられることが
あるだろうか?過去何千年もの間、人類はこの一つの目標に向かって取り組んできており、そしてそれは今も
続けられている。今度はあなたの番だ。あなたは既にその事実を知っているのだから。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
その肝心な判断基準はどこから持ってくるのだ? 未来から持ってくるわけに行かないから、当然過去だ罠? すると人々を過去に縛るわけだが、問題だろ。どう答えるよ?
・信頼ったって、窃盗団の中にもあるぜ。
>>143
(根本的な何かがずれている。 多分翻訳がおかしいのだろう)
アートマンを知る必要はない。いや、むしろ知ったと思うことによって驕り高ぶるだろう。人間とはそういうものだ
>>144
自慢に落ちる方法論か?
未熟な者に教えてはならない・・・ あれだ、最近の性教育みたいなことをするスワミだなw
さて142から解説にはいる。
自分自身に対する信頼感が、人間にとって最も大きな助けになる。
これはあくまでも自分の内側に深い部分、コンシャスネスやアートマンに部分への信頼をヴィベーカナンダは言っている。
コンシャスネスに繋がると善悪や損得を超越した判断・行動がなされるようになる。
つまり、「為すべきことは自分の内側・奥にあって、過去にも未来にも存在しない」のである。
よって、147ように浅慮な問題など意味すら生じない。
盗人の信頼など金やその他の条件によって変わる。自分自身への信頼は変わりはしない。何故ならここへ繋がるようになると自分自身(自分の内側・奥)の判断は間違いが無いことに気がつくから。
絶対に信頼が置けるのは自分自身以外に存在しないことに気がつくから。
過去の経験は判断の基準にならない。
信頼は自分自身という深奥から来るものだから。
自分自身を信頼すると言う事が、もっと広く伝えられ実践されるならば、私たちの弊害や災いの
大部分は消え去るだろう。人類の歴史を通じて、優秀な偉人達の人生における原動力が
他の人々よりも優れていたとすれば、それは自分に対する信念だろう。
彼らは素晴らしい存在になるという意識で生まれ、そして偉大になった。
人は地番深い所まで落ち込むと、やがて自暴自棄の道から逸れて、上昇曲線で
自分を信じることを学ぶようになる。しかし、まず最初にそのことを知るべきだろう。
自分自身への信念を得るために、なぜ人はこれらの辛い体験をしなければならないのだろうか?
人間同士の違いは、自分自身に対する信頼感があるかなにかに尽きる。
自分を信頼することができれば、人はどんなことも成すことができる。私は自分の人生の中で
それを経験してきて、そして今も味わっている。さらにその信頼感は年齢を重ねるごとに
ますます強まっている。
もちろんそれは人生の体験を通して学ぶこともあればヨーガや他の宗教を通して学ぶこともある。
しかし、それはやはり自分の内側に、自分自身が「神」であることを深く認識し、そこに繋がるためのホットラインを
誰もが持っていることを認識しないといけない。
新しい宗教では自分を信じないものの事を無神論者と呼ぶ。
自分自身が信じられない(その判断を信じることが出来ない)状態で「他人を信じる」ことができるだろうか?
「他人を信じる」つまり、その人物を信じられると言う根拠を自分自身の中に持たないのに。
自分は信じられない存在なのだから「その人物を信じられる」というのは怪しいということになる。
他人を信じられるということは、「(その人物を信じられると言う判断をする)自分を信じられる、自分自身の判断に信頼を持つ」ということでもある。
その意味で言えばオウムのグルへの帰依はまったくの妄想だと言える。
オウムでは非解脱者(ステージの低い者)は解脱者(ステージの上の者)を理解できない。
だから最終のステージの麻原を信じろ、自分の判断は間違っている、と教義は言う。
では、何を根拠に麻原を信じろと言うのか?
我々は「信じる」ということの本当の意味を知らなかったのである。
自分自身を労わる、信じるということを知らなかったのである。
そして、「信じる」ということのプロであるはずの宗教家であるところの「オウム真理教教祖尊師麻原」は「信じる」ということの本当の意味を教えられない「ど素人」だったのである。
しかし、再度繰り返すが、ヴェーダンタは同一性(一元性)を説いており、それは利己的な信頼ではない。あらゆるものを信頼しなさい。
あなたは全てであるのだ。全ては一つであり、自分を愛する事は全てを愛する事を意味しているのだ。
この信頼感によって世界をさらに良くすることができる。私はそう確信している。
「私は自分を知っている」と確かに言う事ができる者こそ最も崇高な人間だ。
自分の枠組みの後ろにまだどれくらいのエネルギーやパワーが、そしてどれ程の強さが潜んでいる
かを知っているだろうか?人間にはそれら全ての力があると言う事を理解していた科学者はいるだろうか?
人類が初めて地球上に現れてから数百万年が経過している。しかし、人間の力はまだほとんど
明らかにされていない。だからこそ、自分が弱いと言ってはならない。
表面的には堕落でも、その背後にはどれ程の可能性が広がっているか知っているか?
人は自分の中にあるその可能性についてほとんど気か付いてはいない。しかし、あなたの背後には
無限の力と幸運の海が広がっているのだ。
人間の無限性・・・
これが無いとするならば、何故に人間はこうも無限に憧れて瞑想や修行などをするのだろう・・・。
人間は無意識に知っているのである。
「我々は無限の可能性を持っている」と。
147はそういう意味で愚かだ。
アートマンを知る、ということは自分の深奥(背後)の無限性に気付く(思い出す)ということだ。
そこが仏教の「無我」だろうが、ヴェーダの「アートマン=ブラフマン」だろうが「自分自身を知る」という意味では
同じだ。
そういう意味において仏教もヨーガも核心は「自分自身を知れ」なのである。
草稿中
今から書くことを理解するために
真我=梵我
ということをまずは頭に置いてください。
真我は梵我と同じもの、というか梵我の別名が真我だということです。
よく、アベル板管理人が、アカシックレコードをサーバー、各個人の真我を各PC端末としてイメージし、全体を理解しているようですが、実は俺は若干の違和感を感じていました。
それは真我=梵我という理解とは違うからです。
サーバー・端末説だとイコールにはならないからです。
では、どうなのか?
そのことを書く前にまず、十二縁起の『無明』について書きます。
他のとこにも書きましたが一体何が『無明(無痴)』なのか?
結論から言うと「真我=梵我」、『我は梵である』、ということに無明であるということです。
しかし、待ってください。完全であり、不生不滅、壊れないものである真我=梵が「無明」になるとはどういうことでしょう。
完全、不生不滅、不壊であるものが、不完全なものになれるものでしょうか?
論理的にはありません。
しかし、方法は一つだけあります。
正確には不完全になった振りですが。
真我=梵我を忘れた振りをすることです。
無明になった振りです。
そして、無明ゆえに行が生じ…あとは十二縁起通りです。
話を元に戻すと、我々は梵我であり、そのことを忘れた振りをしている。我々は端末では無く、『全体で一つの梵我』なのであってバラバラでは無い。ということです。
ということは、
釈迦のアナートマン、いわゆる無我は端末としての真我(個我)の否定であって全体で一つの真我=梵我の否定では無いと思われる。
名(名前や記号)を真っ先に否定する釈迦の手法においては、名を使わずに真我を肯定してるものが十二縁起・無明だと考える。
最終結論としては、
真我(梵我)=無我
て、我々は便宜上の個がある(振りをしている)だけで無我だ、と言うことです。
2ちゃんねる 心と宗教板 果たしてオウム・Aleph・ひかりは完璧か? 194 より
http://www.biggym.co.jp/store/video/beard/danjiplus/dplus_021.jpg
>>314
念のために
俺じゃないからね。
俺は出てないし出ないから。
よくそんなもの探すね。
バカじゃないの?
>>319
この程度の冗談すら笑って見過ごす事ができずいつも間髪を入れず反応してしまうのは、さすが「ホモの癖にケツの穴が異様に小さい男」、元芝さんです。
その異様に批判に弱く、過剰なまでに外聞を気にする傾向は、自分自身の内側に確固たる自信を構築できていない証拠でしょうけれども。
何年経っても上記の傾向が治らず一向に心の成熟が進んでいないのは、大して徳が無いにもかかわらずプライドだけは異様に高く、常に自意識過剰で未だに本当の意味での「気付き」が出来ていないのが原因だと思われます。
もし元芝さんが自己の内側を正しく見つめる事が出来るようになれば修行が飛躍的に進むはずなのに、くだらない事に一々反応してネットで虚勢を張っている様な状態で留まっているのは、とても残念です。
反論も馬鹿らしいけど、一応しておくと、このゲイビデオの男優さんに迷惑がかかるといけないので「俺じゃないよ」って言ったわけ。この人にはこの人の理由があってビデオに出ている訳で、殺人カルトの構成員だって間違われたくないでしょうからね。それにこういうのは冗談じゃなくて「いつか本人に当たるだろ」的な考えで探してるんだと思う。興味が無いのにあんな画像引っ張ってくるんだから
他人の迷惑を考えない冗談って単なる迷惑行為。
で、
この程度のコメントを見過ごせなくていちゃもん付けてるはどうなんでしょうね?ことあるごとに「徳が無い」だの「気付きが足りない」だの「自意識過剰」だの「プライドが高い」だの
寝言は寝てから言え。
何十年経っても己こそが「自意識過剰の見下し野郎だっていう気付きが足りない」んじゃボケ!
はい、スッキリ。
念のために。
「ホモのクセにケツの穴の小さい」とかの発言が既に差別主義の見下し発言で、教義に言う平等心が無いって「気付き」が無いのだろうね。だいたい、ホモ全般でケツ使ってるだろうなんてもうアホかと。自分の妄想だけで喋ってるキチガイと何も変わらない。
ああ。哀れだ。
悲しくなるほど哀れだ。