近代日本の私小説は「私」の確固たる肉声というよりは、むしろ流動的な「気分」に根ざすと言われる。志賀直哉や嘉村磯多の私小説におおいては、主体的な人間ではなく、事実上「気分」が主役なのである。
私小説の「私」は不安定で脆弱で気分屋であり、それゆえに野蛮な性衝動や暴力衝動にいとも簡単に取り込まれる。
それに対して、村上春樹の工夫は、むしろこうした一人称の「私」の脆弱性を《逆用》することにあった。
彼は頼りない自己を一種のメディアに変えて、そこに「あなた」たちの語りをこまめに書き込んでいく。
つまり、物語の語り手の地位を他人に譲り渡し、自分はあくまで聞き役として物語を整えることに徹する。
こうした二人称的構造は、ちょうど世阿弥の夢幻能において、旅僧の見る夢のなかに平家の公達の幽霊が現れることと同型である。
そして、他人をして語らしメルこの構造は、高度資本主義下の不気味な「悪」を主人公に一歩一歩引き寄せるための仕掛けでもある。
シニカルで平凡な小市民である村上の主人公は、自らの脆弱性ゆえにしばしば悪夢的なイメージをも大量に呼び込んでしまう。
村上の本領はむしろ、マジョリティの「冷ややかな超越論的自己」が、多くの人間から収集された「物語」すなわちエロス化された悪の自重に耐えかねて変質していくプロセスを描くことにあった。私が先ほど「村上の弱点はときにそのまま彼の文学の長所に転じることがある」と述べたのは、マジョリティを肯定しつつ脅かす、この二面性ゆえである。

福嶋亮大(復興文化論