「大きな物語」の仮構世界での復興は、表面的には80年代以降、日本におけるファンタジーの流行という形で顕在化する。
アニメ、ゲーム、ライトノベル、コミックなどの作品の主流はファンタジーであり、これが70年代末の時点ではファンタジーはもっともマイナーな分野だったことを考えると大きな変化である。このような中で「ファンタジー」を作り続けながら、ファンタジーが歴史からの逃避であることに自覚的であったのは宮崎駿である。
宮崎はアニメーション版『風の谷のナウシカ』において、武力をもたない小国家(つまり戦後の日本)に巨神兵(武力、もしくは大量破壊兵器)を持ち込みながら、巨神兵が機能不全で自己崩壊することで決着をつけた。
そのことで現実の歴史への批判であることに失敗し、それを高畑勲に厳しく批判された。ファンタジーの世界から「現代を照らし返す」作品となっていない、と高畑はコメントしたのだ。
そして高畑は、宮崎の『となりのトトロ』(88年)と同時上映の『火垂るの墓』で、宮崎の歴史からの逃避を正面から批判した。
『トトロ』以降の宮崎は、歴史から切断された「小さな物語」を描こうとした。
第一次世界大戦が存在しなかった世界として『魔女の宅急便』(89年)を設定したり、第二次世界大戦が進行しながら主人公は歴史から下りて飛行機で戦闘ごっこに興じている『紅の豚』(92年)や、日本の中世を扱ったとされた『もののけ姫』(97年)も実際にはギルガメシュ叙事詩の翻案だと本人は語っているように、歴史と作品を切り離す戦略をとった。
宮崎駿作品は、このように「歴史からの逃避」という問題を作者が自覚している点で特徴的であり、倫理的である。『紅の豚』などは自分が歴史からの逃避者であるということに批評的であるため良質の作品になっている。
だからこのような現実逃避の葛藤が見られない『天空の城ラピュタ』(86年)が「おたく」たちの支持が高いのも当然である。
宮崎はしかしシナリオを担当した『コクリコ坂から』(2011年)において、突然、歴史への回帰をする。「少女まんがスタイル」は日常を扱いながら非歴史的であるという点で、ジブリの「小さな物語」のヴァリエーションの一つだが、この作品では突然、戦後の日本が朝鮮戦争に後方支援で参加していた事実を描写する。それは戦後の日本人がほとんど知ることのなかった事実である。
そして『風立ちぬ』(2013)において宮崎は現実の歴史に主人公を回帰させる。主人公の堀越二郎を度の強い眼鏡越しにしか世界を見ず、歴史的現実に距離をとり、夢の中で理想の飛行機について語る青年としてまず描いた。
彼にはドイツや日本の敗北を告げる謎の男の顔さえ、眼鏡と、そしてタバコの煙の向こう側にしか見えない。
つまり、彼は現実の歴史から切断されたファンタジーの中にいる。しかし、物語の最後で彼は初の戦闘機のテスト飛行で、そこにいる者たちが成功を喜ぶ中、一人、不気味な音を聞き、立ち尽くす。そして「風」を感じる。
彼は外側の「現実」を初めて感じとり、その後は彼の戦闘機のもたらした悲劇が語られていく。
つまり『風立ちぬ』は、宮崎がファンタジーを放棄する作品であり、彼はファンタジーを創り続けてきた宮崎駿にピリオドを打ったと言える。
宮崎が「ファンタジー」を断念したのは、ファンタジーが現実や歴史の消極的逃避ではなく、ある種の歴史修正主義の温床になっている2013年の時点での日本の現状を踏まえている、と考えるべきである。その意味で彼はファンタジーを創るべきでないと考えている。

大塚英志『メディアミックス化する日本』