漱石の小説では、女ははたして二人の男のうちの一人を主体的に選び取ることが出来るのかという問いが問われていた。
それは『三四郎』でも『それから』でも『彼岸過迄』でも『行人』でも『こゝろ』でも問われ続けていた問いだ。
もちろん、この問いはまるで逆の形を取り得る。
すなわち、女は同時に二人の男を愛することも出来るのではないか、と。
いずれにせよ、こういう問いの向こうには「女性嫌悪」の感性が透けて見える。
『明暗』でも、依然としてこれと似た問いが問われている。すなわち、清子はなぜ急に身を翻して津田を捨てたのかという問いだ。これは、女の主体を問うことにほかならない。
しかし一方で、津田の妻お延の側から見れば、この津田のこだわりは、はたして夫が自分を「比較」を超えた「絶対」の「愛」で愛しているかという問いに置き換えられるのである。
漱石は、『明暗』においてはじめて女の側からの問いを書こうとしたのだ。

石原千秋『漱石と三人の読者』