昔中目黒から目黒川沿いを歩いていたら橋の欄干にドラクエのラスボスのフィギュアが並べられ放置されていて、え、これなんの罠だろうと思ったが、あたりには誰もいなく、気をぬくと手が動きそうになる。でも、罠だろう、罠でなくても、持って帰ったら人生全体が罠になるだろうと思って、そのまま帰った

でも今でもまだ桜も咲かない春のなかで橋の欄干に並べられたドラクエのラスボスたちを思い出す事がある。誰かがあそこに置いたのだし誰かがあそこから持ち帰った。その前と後のことを私は一生知ることなくしななくてはならない。まんなかだけが私のところにきた。まんなかでラストのひとたちに出会った

さいきんどの映画を観ても暗く、暗いなあ暗いなあ魔法を多めに使う映画だからかなあ、と思っていたのだが、眼科に行ったら、映画が暗いんでも魔法が多めなのでもないんです、あなたの眼が暗いんです、と言われて、えっ、めっ、とわたしは言ってしまう。このめとめが、と。

こないだ対象が見えない話をする時に見えない話をするんだから眼鏡は外したほうがいいなと思い、眼鏡を外して話していたのだが、裸眼で世界が水と化し、眼に怒濤のように水が流れ込んでくる、眼に水がそそがれながらしゃべると水、対象の次の行動が予測つかないのは水、眼が水びたしのなか、話す。

こないだ前に出て話した時最後の感想コーナーで「根本敬の『でも、やるんだよ!』だと思いました」という感想があって、みんな〈?〉となっている中、私は高校の頃必死に根本敬のマンガとエッセイを集めていたので凄くどきどきした。思い出の隠密のような人が会場に来ているんじゃないかとどきどきした

そのときの会場で、わたしも名前がやなぎもとなんです、という方に出会って、どきどきした。昔レントゲン室で服を脱いでいたらとつぜん「わたしもやなぎもとなんです」と声をかけられたことがあったが、こんなふうにあとからあとからやなぎもとさんがまだやってくるのだろうか。いきてると。

コンビニで親子丼とティラミスを買ったら「箸かスプーンどちらかひとつお付けすることができます。どちらにしますか?」と言うので「ひとつずつお願いします」と言ったら「ひとつずつでなく、ひとつです」と言う。〈どちらも〉がいいけれど〈どちらか〉しか選べないそういう泉の女神方式なのかなと思う