キアロスタミ『桜桃の味』は〈車窓映画〉で、主人公はほぼラストまで車窓の内側にい続けるのだが、車の外からカップルに写真を撮ってくれるよう頼まれ、車の内側が〈外〉になってから物語が急展開する。それまで自 殺にとりつかれていた主人公は、突然、生きようと決意する。これは、〈額映画〉である

キアロスタミ『桜桃の味』がすごいのは、意味的境界の分節を、車の内と外、窓枠の内と外に徹底したことだ。私たちは窓から外をのぞくが、とつぜんの思いがけない訪問者によって私たちは私たちが実は外側にいたんだということを思い知らされることがある。そしてそれが映画であり、人生でもある。

〈桜桃の味〉はもちろん内側にある。それは、味なので。ひらかなければわからない。でもその味は、ふと乗せた老人によって、ことばとして主人公の〈内側〉に抜け道のように流れ込んでくる。「すべてを拒み、すべてを諦めてしまうのか? 桜桃の味を忘れてしまうのか? だめだ、頼む。諦めないでくれ」