刺激剤としての〈他人の女〉は、西欧の恋愛小説でなら、ごくあたりまえのように出てくる。
西欧キリスト教文化における恋愛が、19世紀のブルジョア階級の中で、しだいに結婚への道として通俗化されるようになると、〈他人の女〉は、結婚に至らない、あるいは結婚の中に消滅しない、恋愛の可能性をもたらす存在として、ますます恋愛の立役者となっていったのである。
『ボヴァリー夫人』や『アンナ・カレーニナ』、『谷間の百合』と、いわゆる姦通小説が恋愛小説の主流となったのである。
姦通小説は、そのほとんどが主人公の破滅で終わっているからこそ、その恋愛が浮き彫りにされ、恋愛が主題となり得る恋愛小説なのである。
その意味では、恋愛の成就の時点でハッピーエンドに終わる『それから』は、恋愛を扱っているが、姦通小説でも、近代恋愛小説でもなく、その恋愛の葛藤は、親や家や社会的な体面という、前近代的なものであり、むしろ、近代以前のロメオとジュリエット的な正統的恋愛小説といってい。
ところが、『それから』の〈それから〉を描いた『門』は、そうではない。
『門』は、どこかに破滅を暗示しながら、危うい均衡の中に、他人の女との恋愛の結果である結婚の日常を生き抜こうとする恋人-夫婦を描いている点において、〈姦通小説〉であり、近代的な恋愛小説なのである。
そして、『こゝろ』は、その危うい均衡が保て得なくなって破滅へ突入するという、恋愛の末路を描いている点で、他人の愛する女との結婚という、精神的な姦通の成就から破滅へと至るまでを描く恋愛小説だといえる。

水田宗子「〈他者〉としての妻:先生の自 殺と静の不幸-漱石の『こゝろ』への一視点」『漱石研究6』