徹子の部屋の聞き手としての黒柳徹子に興味があってずっと一年くらい録画して観察を続けてきたのだが、ひとつは〈深追いしない〉ということがある。徹子の無茶ぶりは有名だが、この無茶ぶりは〈深追いしない〉ということと裏表であって、シリアスな話題も深追いせず、次の話題に転じる。

ただそれが冷たさとしてあらわれるのかというとそういうわけでもなくて、徹子が話題を吸収=無音化した上で、話題を転じたとも言える。話を聞いていない、というよりは、徹子の人生経験上そういうこともひとは生きているとあるのをわかった上で吸収し無音化している(ようにみえる)。

このとき、「徹子の部屋」というタイトルは意味深だとおもう。ここは、「あなたの部屋」ではないのだ。ここはあくまで「徹子の部屋」なのである。イニシアチブは徹子にあるのであって、〈あなた〉にあるのではない。そうした部屋のあり方があらゆる話題を特権化させることなく、吸収する。

もうひとつ興味深いのが、徹子の頭で、私はだんだん徹子の特徴的な〈たまねぎ頭〉はある種のモニュメント(話の慰霊碑)として機能しているのではないかと思うようになった。たまねぎ頭は徹子に同化することなく、飴を入れる機能的オブジェとして徹子の上に接着(付着、憑依)しつづける。

それは徹子という主体が、徹子単体であることを許さず、徹子の上に何かの超越的主体(タマネギ主体)があって、それが徹子をもカバーしていることを想起させる。徹子という人間単体に話しかけるわけではなく、ゲストは、徹子の頭上に接着しているモニュメントに向かって慰霊(鎮魂)のように話しかける

徹子の部屋とはこうして、会話や対話の場所ではなくて(実際徹子は話をすっすっと流してしまうようにみえることが多い)、招かれた人間が持ち込んだ話の慰霊として機能しているように思う。そうした特殊な〈部屋〉が主人公なのであって、だから、「(徹子の)部屋」というタイトルがついているのだ。