最初期のマリオとクッパはゲームの近代というか主体性や性役割、性自認がとてもはっきりしている。いけいけどんどんで前に進んでマリオが城に旗を立てて〈植民地化〉し返す(領土拡張的)のも近代的だ(その為には特攻もするし命の犠牲も払うし排除も破壊もするし星や茸で手に入れた力が全てになる)

でも例えばスーパーファミコンになって七英雄やケフカのような人格破綻者というか境界的な人格の持ち主が現れてきたように思う(言わば目的不明者)。しかもワグナスやケフカのように性自認や性目的、つまりセクシュアリティもはっきりしない人たち。人格そのものにバグを起こしてしまった人達



例えばスーパーファミコンの(名作クソゲーと言われる)『摩訶摩訶』は漫画家の相原コージがキャラクターや世界観を担当しているのだがこれは相原コージの独特なカオスな細かいギャグの世界観をゲームが表現できることを表している。ジェンダーがぶれている人間をデザインとして表現できるようになった

私は実はスーファミで初めて買ったソフトが『摩訶摩訶』でこれは当時(余りに無茶苦茶な仕様で)本当に泣いた。ROMカセットにも関わらずとんでもないロード時間で前代未聞だった。そもそも私達にはロード時間なんて概念はまだなかった。だからそれが最初で最後だが私は初めてメーカーに電話をかけた

それですぐつながり私は「戦闘に入る時のロード時間が長すぎてこれは故障してるのではないか」と問い合わせた。で、たしか「いや故障じゃないですね」と言われたんだと思う。で、小心者だったので、そこで、「あ、そですか」と切ったが、何年かたってクソゲー解説を見て色んな事をなっとくした

ただ『摩訶摩訶』はキャラデザインが凄く面白いし音楽がめちゃくちゃかっこいいので、その面からみたら、今考えてもあの当時、こういうキャラデザインと世界観のゲームがあったというのは(ちょっと後のプレステのおしゃれ変ゲームみたいなものにつながる気がする)、凄いなあと思う。結局好きなゲーム

ちょっと話がずれたが、スーパーファミコンになっていきなり言ってみればポストモダン的な変態的世界観が増えたような気がするのだ(ちなみにプレステでおしゃれ世界観がふえていく)。スーパーファミコンは変態や変態的内面を緻密なドットで描けるようになったんじゃないかといまちょっと思う

それがプレステに至ると立体的に描けるようになり緻密さはラフになる一方シュールな立体や身体がポリゴンで生まれるようになりそれがおしゃれ変ゲームをうんだのではないか。つまり目的遂行型のゲームから、無目的戯れ型のゲームに。ちなみに目的遂行+無目的戯れでオープンワールド型ゲームになる