さいきんずっと野生爆弾・川島さん(くっきー)の歌というか世界観について考えてたんですが、ちょっと寺山修司に似ているなと思ったんですよね。

川島さんの歌というかネタで、サッカーのボールネットにつっこんでしまったひとがしゃこやダイオウグソクムシととつぜん耳元で叫ばれておびえるネタがあるんだけど、この唐突な生物の挿入の仕方って寺山修司にも近いとおもうんです。

 父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し/寺山修司

川島さんも寺山修司も、しゃこやダイオウグソクムシや犀がなんの文脈もなく、ほとんど文脈を用意せずに、暴力のようにとつぜんでてくるんだけれど、ただその生物が暴力的に出されたときに、そもそもしゃこやダイオウグソクムシや犀に対してわたしたちはある程度の文脈をもっているのだから、そこから〈奇妙な理解の挿入〉がうまれる。だからなんとなく〈わかってしまう〉んだけれど、でもよくよく考えると〈よくわからない〉状況。そういう奇妙なシチュエーションを2人ともつくりだしているんじゃないかと思うんです。

川島さんと寺山を比較していくと、死 体愛好(ネクロフィリア)や隠れん坊嗜好、アナクロニズム、愛の生成と喪失、大衆芸能のサンプリング、自傷と鮮血、などけっこういろんな同一のテーマを発見することができるんじゃないかと思うんです。

現在の寺山修司はきみょうでおもしろい場所にたどりついている、というか。