『ドラゴンクエスト7』と『ファイナルファンタジー2』のこの2作に共通していることがあって、それが〈死〉をテーマにおいていることだと思うんです。

とくに『ドラゴンクエスト7』はびっくりするくらい暗くて、このゲームは基本的に過去と現在の同じ場所をいったりきたりしながらゲームをすすめていくんですが、その過去というのが何百年も前なので、現在においてはみんなもれなく死んでいるんですよ。だから過去においてふつうに仲のよかったひとが現在においては骨になっていたりする。そういうのとたえず向き合っていかなければいけないある意味ではとてもハードな物語になっています。

ただそれってもうこのゲームが選択した物語のシステムだからどうしようもないんですね。プレイヤーが行動しだいでどうにかなることではない。別にモンスターとかに殺されたわけではなく、時間の流れでしんだんですから。

そのときに、ふと思ったのが、ゲームのなかの〈死〉っていうのはただ死ぬこと、殺されることではなくて、プレイヤーがどうすることもなく、ゲームのシステムからはじき出されてしまうことだと思うんですよ。そうしてはじきだされながらゲームのなかの人物たちの死にたちあう。それがゲームのなかの死なのではないか。

それはファイナルファンタジー2もそうで、進行上、みんな主人公たちをかばいながらばたばた死んでいくんだけれど、どうすることもできない。魔法で生き返らせることもできない。たちあうしかない。

そうすると、ゲームのプレイヤーにとってはどうすることもできないプログラムそのもの、それが〈死〉なんじゃないかっておもうんです(だからある意味でゲームというのは根本的にはどのゲームも死を胚胎している)。

で、たぶん、『ドラゴンクエスト7』というゲームはそのどうすることもできないプログラムというゲームの根本をテーマにしているんじゃないかと思うんですよね。『ドラゴンクエスト7』のコピーは、〈ひとは、誰かになれる〉なんだけれど、なんで「なれる」のかというと、ひとはたぶん〈死ぬ〉からだとおもうんです。ひとは死ぬと、だれかにとって・だれかになれる。

そういうゲームなんじゃないかと、おもう。