さいきんちょっとファイナルファンタジー4をやりなおしてたんですね。

魔法使い見習いのパロムとポロムが迫り来る壁をとめるためにからだを石にかえてとめる有名なシーンがあって、で、テラという賢者が石化を解く魔法をかけるんですが、ゲームシステム上ふつうは難なく解ける石化がとけない。

画面には、「ふたりは意志により石化しているので解けない」とでる。

このとき、これはゲームにもかかわらず、《キャラクターの感情がゲームのシステムを超えてしまった》んじゃないか、とおもうんですよ。

で、ゲームの演出ってそういうものなんじゃないかとおもうんですね。物語のなかで生きているキャラクターがその物語世界を懸命に生きているうちにそのゲームのシステムを超えてしまうこと。プラグラムを物語が乗り越えるしゅんかん。

キャラクターの意志がゲームシステムに勝ってしまう。
キャラクターがゲームシステムをりょうがする
システムが負ける。

それが演出のたえとして表れたのがファイナルファンタジー4だったんじゃないか。







ちなみにファイナルファンタジーってこういう超越を意識したものがおおいんですね。ファイナルファンタジー1のラスボスのガーランドは時空を超えようとしています。それはある意味、物語をどう超越するか、というテーマを含んでいます。かれは、なんどもなんどもそこで死に、生きようとする。何かを記憶し、わすれ、また思い出していく。

ファイナルファンタジーってそういう超越と向き合う物語だったとおもうんですね。キャラクターがキャラクターとして生きるために超越とはなにかを問う物語。