蜷川幸雄さんが、自分の演出の基準は「自分の母がそれを観てわかるかどうか」と述べていたが、これが〈父〉じゃないところがポイントのような気がする。
母親は、理解を示そうとしつつも〈わからない〉ことにははっきりとノーをつきつける。そのノーは権威からでもないし言語理性からでもない。

また鶴見俊輔が述べていたように、母親は、終生、〈得体の知れない〉ところがある。
記号を母親にいくら放ってもそれは意味を付与することなく、無意味の深淵に落ちていく(こともある)。
でも「わかってもいる」と母親は言う。「わからない」とも。
しかし、父親のように「わかれ」とも言わない。