本ってふしぎでまだ読んでいないのに・読んでしまっている本というのがある。その本の原理をすでに獲得してしまっているというか。この本だいすきな本だ! と思う瞬間はそれなのではないかと思う。
つまり読むために待たれる本ではなく、この世界にはあなたに出会うためだけに待たれる本というものがある

だから実は本を読むという行為は、本を読むことだけでなくて、世界のあちこちに転がっているのではないかと思う。
なんとなくみちくさをしたり、思いがけなくよふかしをしたり、意図せずひとと深く話し込んでしてしまったり、そういうときにもひとは本を読む行為を本を読まないでやっているのではないか

これもふしぎなことなのだけれど、困っているときに、その困っていることをひとに話しているうちに解決することがある。
《話しかけてみる》ことで思いつくことがある。たぶん自分の枠組みをそのひとの枠組みにくみかえて話しかけることによってふだんとは違う思考をするからなんだろうとおもう。

だから困っているときは答えをもってそうなひとに話しかけてみると、そのひとが自分のなかにある答えをひっぱりだしてくれる事がある。
そんなふうになにかが生まれるための《オズの国》っていうのはいつも《むこうがわ》にあるのかなとも思う。
《産院の窓の向こうのオズの国/なかはられいこ》みたいに。