以前、ラスボスの違いからドラクエとFFの違いをかんがえてみたことがあったんですが、パッケージからもちょっと考えられないかなというのが今回の文章です。

とりあえず、ドラゴンクエストとファイナルファンタジーの1,2,3,のそれぞれのパッケージをみてみてください。














ドラゴンクエストは鳥山明が、ファイナルファンタジーは天野喜孝が描いています。

較べてみるとすぐにわかることがいくつか出てきます。

まずドラゴンクエストでは、誰が味方で、誰が敵か、誰が正義=善で、誰が不正義=悪かもすぐわかる構図になっています。
神話的英雄としての男性を前面に押し出し、りりしい眉や、ストレートな瞳、力のこもった表情、または西欧の〈正しい〉歴史的伝統をもつ鎧や武具を身にまとっている。
絵を観るだけで、これは巨大な敵を倒す物語なんだとはっきりわかります。
タイトルも、「クエスト(探求)」なので、探求っていうのは誰かがなにかを探すという→(やじるし)としてのベクトルがはっきりした対象行為です。

一方でファイナルファンタジーはどうでしょう。
まず、誰が味方で、誰が敵か、わかりません。善悪もこの絵をみてもわかりません。
眼はうつろであり、男性か女性かもわからない中性的な表情、また身にまとっている衣装も西欧的なのか東欧的なのかわからない民族的な感じです。
ファイナルファンタジーの絵を観ていてわかってくることは、(驚くべきことですが)よくわからないことがわかるということです。それこそ、ファンタジックななにかです。

これは以前ラスボスの違いをくらべてみたときも書いたことですが、ここらへんにドラクエとFFの後の展開の違いの根っこもあったのではないかと思います。
図式的に善悪の構図をわかりやすく展開するドラクエはわかりやすいのはいいのですが、だんだんこの図式だけでは、思想や哲学の受け皿がないので、おなじ主題の繰り返しになります。
つまり、誰か悪いやつが世界を支配するから、それを正義=善を疑わない主人公が討伐するという話です。
ドラクエがわかりすい図式を描いていた一方で、ファイナルファンタジーはラスボスもそうなのですがみながよくわからない渦のなかに巻き込まれていきます。
ラスボスもおそらく自分がしていることがよくわかっていない。
だからファイナルファンタジーでは〈無〉が主題になることが多い。
わからないから〈無〉に帰するしかない。
でもそのなかでファイナルファンタジーが主題化していたのは、それでも〈死んだり・いなくなったり〉するひとびとがいるということです。
そのひとたちの語りつがれるための〈最後の物語=ファイナルファンタジー〉はどうなるんだろう、ということだったんじゃないかとおもいます。
ファイナルファンタジーは身内や親愛なる者がとても印象的なかたちでばたばたと斃れていきますが、ラスボスを倒したからといってかれらがもどってくるわけではない。
だからそこに、わたしたちは愛するにんげんがしんでも、それでもどう生きていくか、どう語りつないでいくかという哲学的・思想的問題がある。
物語はいったいだれが・だれにむけて・だれのために語るのかという語ることの問題です。それは、だれを倒すか・だれから倒されるかの問題ではありません。

乱暴な図式整理ですが、そこらへんが、ドラクエとFFの主題のわかれめとして出ていったのではないかとおもうのです。
かんたんにまとめればこうです。
ドラクエは、わたしがあなたを倒す物語である。
FFは、あなたの物語がわたしの物語を問いかける物語である。