トラウマは言語化できない傷としての側面もあるが、なにかあるたびにそこに自分が還ってゆくような〈場所〉としてもある。
還ろうとしてもはねつけられその場所から再度傷つけられるような場所だけれども、それでもそのつど〈還り方〉はちがっていた/ることを教えてくれる場所としてもあるのではないか。

トラウマそのものを見据えるのではなくて、トラウマへの不意の還り方において、いかに自分が〈少しずつ〉形を変えながら〈還っ〉ているか、そしてそのことによっていかにトラウマが少しずつ変質しているかを知るかが生をつないでいくためのヒントになっているようにも思う。
〈還り方〉はことばにできるから。

   *

〈恥〉についてずっと考えていて、〈恥ずかしい〉っていうのは、自分に対する自分が、自分=自分という等式からズレて、自分を〈外〉へ〈外〉へとはじき出していく運動である。
だから〈自分サーフィン〉のような所があって、うまく〈恥〉をかきさえすればそこには大きな自分の変成が待ってるんじゃないかとおもったりする。

恥ずかしく、すること。恥ずかしさから旅のプログラムを組むこと。