「宿題やったの?」「やろうと思ってた」といういわゆる〈口だけの人〉といわれる会話があるが、この「やろうと思ってた」という意志を持ち続けるのって結構大事なことではないかと思っていて、「やろうと思ってる」と、だんだんとかすかに自分が組織化されていって、ある朝、やってしまうことが、ある。

たとえ今は何かの理由でできなくても「やろうと思ってる」ことがぬぐいきれずに毎日思ってしまうのであれば、自分ダメだなんて思わずに毎日〈思う〉ことによって育て組織化していったらいいのではないかと思う。
それにあっさりとやってしまうよりもよっぽどそれそのものに深く関わる事になるように思う。

だから〈できない〉っていう〈不可能性の手前〉っていう状態は、〈できる〉っていう〈可能性の没入〉よりも、案外長くそれそのものとつきあうことになるのではないか。
できないことが、ネットワークをつくる。たとえば〈恋愛〉がそうで〈好き〉というきもちはいつも〈不可能性の手前〉にあるように思う。

〈好き〉というきもちは、完璧な伝達がなされたとたんに、そんなにかんたんに伝わるものじゃない!というきもちになってしまう一方で、伝わらなかったら伝わらなかったで、なんでわたしのこれだけの気持ちが伝わらないの!という〈両極の頭打ち〉をもっている〈不可能性の手前〉にある感情である。

たとえば、そうした頭打ちの感情を身体化することによって解消するのがセッ クスだと思うのだが、ところが完璧でパーフェクトなセッ クスにたとえ近づいたとしても、こんどは感情そのものが身体に剥奪され、もしくは、あたかも性=身体が資本=消費化されているように感じられるかもしれない。

ときどきセッ クスの彼岸におけるセッ クスのあり方みたいなものを考えるけれど(つまりセッ クスに回収されないセッ クスを考える事があるけれど)、そういう込み入った言説化できないセッ クスの様相をあえて〈ことば〉で脱―言説化したのが村上春樹『ノルウェイの森』なのかなと思うことがある。

ところで、宿題やった?