内村光良「LIFE!~人生に捧げるコント~」をみて思ったのだが、内村光良のコントは、〈熱情〉をベースにしていることが多い。
ただその〈熱情〉の無根拠さゆえに〈熱情〉が〈狂気〉と感じられる瞬間を描いている。
松本人志は対照的に、〈根拠のある冷徹さ〉が〈狂気〉になってゆくように思う。

〈根拠のある冷徹さ〉といったけれど、たとえば〈大日本人〉や〈しんぼる〉のようにどこか根拠が超越的な審級にあるのが松本人志のコント=映画でもあるように思う。
超越者がいるからこそ、キャラクターは落ち着き、、クールでいられる。
内村光良のコントは超越者がいなく、無根拠なため、過激である

だから内村光良コントの面白さとは、無根拠なのに全開の熱情と、その熱情によってそもそも根拠とはなんなのかと問われる事態にあるのではないだろうか。
たとえば有名な小須田部長のコントは小須田部長がどんどん島流しにあう話だが、それでも小須田部長は無根拠な熱情をあげる。
熱情の根っことは何か

ちなみに根拠/無根拠関係なく、〈みんな〉で〈みんな〉の最大公約数の熱情と冷徹をわかちあっていくのが三谷幸喜の〈笑い〉のベースとしてあるように思う。
だから、三谷幸喜の〈笑い〉は、〈会議〉や〈裁判〉や〈取り調べ〉と親和性が高い。
変数でしかなかったものが突如として公約数に反転するドラマ

ちなみにビートたけしのコントは自らの主体を徹底して疎外しすべてを同時代や過去の文化や歴史の構築物からのパスティーシュによって文脈と文脈をぶつけあわせてその意味の火花を〈笑い〉として昇華させるといった、三谷幸喜と対照的な笑いであるようにも思う。
パロディをパロディ化してゆく差異と生成。
ビートたけしは、ビートたけし/北野武をパロディにする。