明石家さんまが、興味ない事も知る必要があるといってたが、私もむしろ興味ない事の方が積極的に知る必要があるように思う。
好きな事って何にもしなくてもただ生きてるだけで吸収するので。
寧ろ大事なのは村上春樹の小説にでてくるような自分にとってのデッド・スポットの周辺を徘徊する事じゃないかと。

〈好き〉よりも〈嫌い・いやだ〉の方になにかしら自分を変えていく構造の鍵があるようにも思う。実は、きもちわるいことって大事というか。
興味ない・無関心とは別に〈嫌い・いやだ〉というのはその時点でもう〈翻訳〉が働いているわけだから、自分の処理機能と凄く関わってるはずなのである。

しかも〈好き〉は一般に流通していることば、もしくはそれに差異化したことば、もしくは〈ことばにできない〉をあてはめれば自分ではおさまりがつくかもしれないが、〈嫌い・いやだ〉というのはそもそも言語化の意志がないにも関わらず〈嫌い・いやだ〉までは言語化してしまう点において特殊な気がする。

あえて、きらい・いやだの周辺を、うろうろしてみること。てばなさないこと。すきにもならないこと。きらい、をたいせつにすること。